終戦前後の満洲における惨劇

                                                           ('97・6-中国帰国者問題同友会)

☆ 第二次世界大戦死亡者(含 日中戦争)              (厚生省-『引揚と援護30年』[S52]-P311)
  総計 約 310万人 (内 軍人軍属、準軍属 約 230万、  外地一般邦人 約 30万、  戦災 約 50万) 
                       (内 満洲 245.400、 北朝鮮 34.600 = 軍人軍属、一般邦人)

 【満洲日本人人口・終戦前後死亡者】

☆ [死亡者] 総数20万名に達すると推定
        (日ソ戦闘期間中-軍人軍属2万6千名以上、邦人3万名以上。 終戦後-軍人軍属、邦人約14万名)
    [行方不明] 3万余名も大部分死亡か  
       (「戦闘直前から終戦1、2年後までの期間中に消息を絶った3万余名のいわゆる状況不明者」 
                の大部分が、今日においては死亡につながるものと考えざるをえない・・・』
                                                   (厚生省-『続々・引揚援護の記録』[S38]-P187)

☆ 終戦前後  死亡者= 24万5千人              (日ソ戦闘間6万、終戦後18万5千) 『援護30年』-P197

☆ ☆ 満洲国・関東州人口=1,662,234人
     満洲国=1.433.324人(除軍人、軍属、家族。含開拓団)  ['44・9,満洲国政府調査] 
       関東州=  228.910人                             ['45・6,関東局調査]      
   ☆ 開拓団=196.739人-['45・5,満州国国勢調査、]、  
      満洲国・関東州人口=1.549.700人 ['45・8・9,日ソ開戦時推定]     
      死亡者=180,694人 ('45〜'49)  (長春市-27.669、  奉天市-30.443、  哈爾浜市-15.157、
              奉天省-12.353、  旅大地区-16.036 )       死亡・行方不明=約3万人('50〜)
                                                                             『終戦史』-P441
☆ 在満日本人数=166万人('44・9,含関東州、除軍人・軍属・家族)   145万人('46・5,同)
     死亡者数= 17万4022人 (終戦〜'49)、 ['50年以降死亡者、行方不明 約3万]『国史・上』-P784
☆ 引揚開始時 人口('46・5)=136万1千人 (日本人救済総会調査)                『国史・上』-P810 
      (大連地区-275千、国府地区-808、中共地区-277、
                                 <内訳・北満国境-172、老爺嶺以西-36、通化方面-18、本渓湖西側-51>)
☆ 終戦時 在満邦人=155万人    内開拓団=在籍者27万(17%) =内応召者4万七千、実在22万3千(14%)   
            死亡者=  17万6千人  内開拓団=    8万(45%) =内戦死・自決 1万1520 『開拓史』-P436
☆ 事件別開拓団死亡者一覧表 (計 9622人  註、犠牲者15人以上の団)             『開拓史』-P430
☆ 各地遭難事件(各省別・事件別)                                            『終戦史』-P529
☆ 各地遭難事件(各省別・団体別、'45年)                                        『国史・上』-P786

<主要資料> (略称)−『』
(援護)ー『引揚と援護』 引揚援護廳、昭25。 『続々・引揚と援護』 昭38。 (援護30年)ー『引揚と援護30年の歩み』
 厚生省援護局、昭52。 
(終戦史)ー『満蒙終戦史』 満蒙同胞援護会、昭37。 (開拓史)ー『満洲開拓史』 刊行会、昭和41。 
(国史)ー『満洲国史・(上下)』 満蒙同胞援護会、昭45。
(殉難記)ー『満ソ殉難記』 満ソ殉難慰霊顕彰会、昭55。 (逃避行)ー会田一道 『死の逃避行-満州開拓団27万人』、
 -『証言』、 -『追跡』。 
(シャオハイ)ー江成常夫 『シャオハイの満洲』。 新井利男-『残された日本人』。 (棄民)ー三留理男 『満州棄民』

 【各地遭難事件−1945年、 100人以上抽出】          (国史・上-P786~) ☆印-別掲[事件別]

[三江省]
◆三江省職員-(匪襲)100余名 
◆開拓団・千振地区(7ケ団)・閻家地区(4ケ団)-(ソ連軍・匪襲)潰滅的打撃(宮城部落-81自決)
◆☆中川村開拓団-(ソ連軍・暴民)300(8・13~) ◆置賜郷開拓団-全滅(自決381他戦死)
◆依蘭県民-婦女子主体、200服毒・100小兒死亡 ◆富錦街・同江県民-船で避難は全滅、徒歩800の内-チャムス着120 
◆富錦県婦女子-(ソ連軍)98/104 ◆宝山開拓団-全員戦死・自決 ◆撫遠県民-(ソ連軍)生存2名 
◆朝日開拓団-(ソ連軍)200   ◆☆小古洞開拓団-全員自決400(厚生省調254) 

[牡丹江省]
◆寧安街婦女収容所(密山・勃利→)-(ソ連軍・土匪)233 ◆拉古婦女収容所(東安省開拓団→)-(ソ連軍)全員725
◆東寧県民-半数以上/2628 ◆牡丹江省民-(ソ連軍飛行機・戦車-列車襲撃)100/940 ◆綏芬河街民-(ソ連軍)300

[東安省]
◆☆東安駅爆発-(日本軍爆弾爆発)死傷多数・虎林県民だけで800(黒咀子開拓団-死526、行方不明336)、
  後徒歩避難(ソ連軍・匪襲)500 ◆密山県民-(ソ連軍)400全員 ◆黒台開拓団-(精根尽き)老幼500 
◆☆哈達河開拓団(麻山事件)-(ソ連軍・匪襲)421 ◆清和開拓団-(匪襲)120 ◆義開完達嶺開拓団30名除き全員 
◆☆佐渡開拓団跡事件-(ソ連軍)212/260 ◆虎林県(二見・光開拓団)-虎林要塞戦闘全滅 
◆虎林沿線軍人家族-422中蛟河着280 
◆ 饒河県 (満蒙開拓青少年義勇軍発祥の地)、
  宝清県(古世古和子-中国に残された子供たち。 朝日・中国残留孤児-58・3・3)

[濱江省]
◆哈爾浜市民-(中共軍処刑)30、(行方不明)270   ◆四道河開拓団他-(ソ連軍・匪襲、ダイナマイト自爆)141 
◆濱県民(満軍・暴民)-358、救援の財神寄居開拓団-56、天理村-(ソ連軍)50
◆葦河県民-(ソ連軍)50、周家営開拓団他-自決60、死亡87
◆長発大塔開拓団-(匪襲)154   ◆高橋村開拓団-(暴民)呼蘭河に投身自殺299
◆満洲国立農事試験場-職員家族全員自決-46(生存1歳児一人)-(朝日-86・7・25、週刊新潮-86・8・7)

[黒河省] 
◆☆黒河事件-(中共軍)200   ◆☆大青森郷開拓団-(ソ連軍・匪襲・オロチョン・山中遺棄)280/494 

[北安省]
◆☆瑞穂開拓団-(匪襲)服毒自殺495  ◆慶安県の開拓団-(匪襲)戦死・自決160 
◆鳳凰開拓団-(匪襲・ソ連軍)自決200

[龍江省]
◆富裕県の開拓団-(匪襲)自決356、斑代開拓団-自決94 

[間島省]
◆間島市民-(朝鮮共青同盟)500 

[通化省]
◆通化事件-(中共軍)戦死・処刑1200

[吉林省]
◆☆敦化日満パルプ事件-(ソ連軍・社宅占拠連日婦女暴行)服毒29-死亡24、 敦化街-(ソ連軍迫害)3000/3ケ月 
◆飲馬河事件-(暴民)死傷200  ◆☆熊本来民開拓団-(匪襲)190/200

[安東省]
◆安東市-(中共軍)省次長、市長等300銃殺

[興安省]
◆各地直接戦闘に巻き込まれ、戦死・自決多数 

[興中地区]
◆☆葛根廟事件・興安街官民-(ソ連軍戦車隊)1200(脱出100) ◆☆東京荏原開拓団-(匪襲)900余 
◆☆仁義仏立開拓団-(ソ連軍・暴民)全滅 ◆巴林左翼旗民-(匪襲)婦女子100大半自決・殺害

[新京特別市]
◆河野村開拓団-婦女子のみ、前途不安70/71自決 ◆新京市民-(国共内戦)死亡300、負傷1350


【個別事件】                                                <資料> ◎-本  §-新聞 
☆ 小八浪・中川村開拓団(三江省樺川県、埼玉-現荒川村)
  昭20・8・13、避難列車の乗車を拒否して村に止まったが、 治安悪化のため15日徒歩避難を始めた。
 途中ソ連軍、暴民に襲われ、老幼病弱者自決・幼児絞殺・溺殺等生地獄の惨状を呈した。 
 戦死行方不明300名。約20日後方正に着いたが、その後も惨状は続いた。
<資料> ◎ 団長・堀口辰三郎<断末魔の中川村開拓団>『開拓史』、 
     ◎ 農事指導員・宮崎由郎<中川村開拓団>『逃避行』-P96、
     ◎ 酒井勇治<旅路の果ての墓標>『大東亜戦史(上)』-P300、 
     ◎(朝日記者)野口拓朗 遠すぎた祖国(荒川村民満州開拓記) 波書房 '83、 
     ◎<飢餓の逃避行(高野伊喜夫)> 『シャオハイ』-P104(宋美蘭)、-P118(高野伊喜夫)、 
     ◎ 山川暁 満洲に消えた分村(秩父・中川村開拓顛末記) 草思社 '95

☆ 小古洞・蓼科開拓団(三江省通河県、長野) 
  鶴岡炭鉱脱走の労働者等に連日女性が犯され、団長はじめ女性・子供254人が毒薬で自決した。 
  (◎ 深田深四郎・幻の満州柏崎村-P46)
<資料> ◎<戦死・自決242>『開拓史』-P430、 ◎ 全員400名自決-『国史』-P787、 
    ◎ 自決233(60%)-『逃避行』-P112

☆『東安駅』爆破事件(東安省)
 昭20・8・10朝、虎林線東安駅において、日本軍の爆弾、砲弾が爆発した。このため,ホームにあった
 避難列車が爆破,転覆し、一瞬のうちに多数の死傷者をだす大惨事となった。 
<資料>◎<黒咀子開拓団だけでも-死者526人、行方不明236人>-『開拓史』、
    ◎<孤児50数名東安道徳会に救済されたが、日本語を忘れ・昭21・6・30 報告>『逃避行』-P184、
    ◎ 古世古和子『八月の最終列車』<モデル・大谷佑子(帰国)>中国吉林省北方婦女児童出版社・86、
                           (朝日-86・11・19)、『中国に残された子どもたち』-P135) 岩波ジュニア '86、 
        ◎ 『棄民』)-<孫香艶[今井満里子、15次判明]、 馬忠賢[前田正子、15次判明]-P148>
    ◎ 門脇朝秀 『祖国はるか』(昭58)-
                   <満鉄虎林工務区長・北島保、林口駅長石崎熊一、勃利駅長・日野武男手記>、 
    ◎ 後藤景雄(元東安機関区) 『満鉄虎林線最後の脱出列車運転記』
                             -(満鉄会報159号、昭63・9・20)、
    ◎ 石垣貞一 『敗戦記』-(善隣240号、平9、6月)
       § 慌てた日本軍が爆破、家族ちりぢり(才宝林-)-(朝日-58・3・1)
       § 列車爆発が運命を分けた(才宝林)-(産経-58・3・9)

☆  麻山事件(哈達河開拓団)  (東安省鷄寧県、混成)
  避難中(ソ連軍・匪襲)、 戦死・自決421−  ◎ 『国史』-P788
<資料>◎ 哈達河移民団(写真-昭12)-日本植民地史(2)満州(毎日・昭53)-P100 
    ◎ <麻山の集団自決の実態>-『逃避行』-P91、 
    ◎ 麻田直樹<大草原の墓標-全員自決の哈達河開拓団>
                       『大東亜戦史(6)満州篇』-(富士書房)-P82   
    ◎ 中村雪子<満州の野に婦女子400余名自決す>『麻山事件』(草思社-昭58)、 
    ◎ 『残された日本人』<張桂雲>
       、◎ <麻山事件を目撃した中国人の証言> (『満州棄民』-P171)  
    ◎<集団自決、死の底から這い上がった少女>『証言』-P150、 
        ◎<集団自決の実態>『追跡』-P91
    § 合掌の妻子へ銃口(朝日-昭24・12・23)、 
    § 麻山の悲劇 [北満三大悲劇、麻山・佐渡・小興安嶺]-[追跡](毎日-58・3・11)、 
    § ソ連軍に囲ま れ悲劇(主婦が38年ぶり真相解明)-(朝日-58・3・14)、  
    § 麻山事件悲願の遺骨収集 苦しみの十字架から39年振に解放される-(毎日-59・10・7)
    § 麻山事件の現場を訪ねて 今もうずく戦争の傷跡-[記者の目](毎日-59・11・20)、
    § 麻山の孤児39年ぶり再会 最終確認へ訪日訴え(東京-59・10・22)
    § 方正県日本人墓地 麻山事件新公墓に納骨(朝日-60・10・20)、 
    § 日中の間の「見えない溝」 (松はみな引き抜かれた)-(三留理男・毎日-62・8・14)

☆ 佐渡開拓団跡事件 (東安省勃利県) 
   [東安省宝清県・長野] 万金山高社郷<戦死420>、尖山更科郷<294>、東索林埴科郷<185>、
                     東横林南信濃<100>、北哈馬阿智郷<24> 
   [  〃 ・茨城] 南哈馬笠間<43> [虎林県・混成] 清和<371>
 避難途中犠牲者をだしながらたどりついた7開拓団(3000名)は、依蘭へ脱出の道をとざされ 
  ごったがえしていた。8月23日夕方,不時着のソ連偵察機を焼いた(終戦不知)。25日,自決514人。
 26日夕刻白旗を掲げ降伏勧告にきたソ連トラック3台(女性を連行するための-『逃避行』-P220)を
 射撃して焼いた。27日夕刻、ソ連軍300が攻撃、埴科郷開拓団本部228名(団員17,家族211)は
 13才の少年一人が生還したほか全滅。他の6開拓団も1464名の犠牲者を出した惨事となった。
 (資料により犠牲者人数異なる)
<資料>◎ 斎間新三『果てしなく黄色い花咲く丘が』-(長野県・埴科郡記念誌編集委員会-53)、
    ◎ 『残された日本人』<証言-斎間新三・埴科郷開拓団長>-P173   <高社郷開拓団>-P113、 
    ◎ 門脇朝秀 『祖国はるか』<報告者、斎門新三-P37>、 
    ◎ 『シヤオハイの満洲』<殺戮の開拓村・紅谷寅夫>-P48、   
    ◎ 『満州棄民』<王才[荒木泰光]-P127>、  
    ◎ 椎名龍治『あの空を飛べたら』-(児童文学ー岩崎書店) 
    ◎ 山崎豊子『大地の子』<上>(文芸春秋)
    § 佐渡開拓地事件(毎日・追跡-58・3・11)、   
    § 終戦知らされず全員自決の道(朝日・中国残留孤児-58・3・2)

☆ 通化事件(通化省)
  '46・2、 中共軍は、旧日本軍人が国府軍と内通して反乱を企てたとして、多くの無関係者が逮捕、
  125名を射殺された。民間人多数が巻き込まれた惨事として有名。
<資料>◎ 『終戦史』-P542、 ◎ 『殉難記』-P499、 ◎ <通化幾山河>『大東亜戦史』-P104、
    ◎ 松原一枝-『藤田大佐の最後』-文芸春秋社
       ◎ 児島襄-<無主の地に帰るー通化事件>『満州帝国-第3巻』-P429

☆ 五家站来民開拓団 (吉林省扶余県、熊本・日本唯一の被差別部落移民)
  現地警察に武器を回収された後、警察命令による多数住民の襲撃により、全員青酸カリ自決(275人)。
 生存者は団長命令により報告者として脱出した1名のみ。
<資料>◎ 自決268-全滅、1名帰還-『開拓史』-P430、  ◎ 『終戦史』-P805、  
    ◎ 『殉難記』-P379、     ◎ 『国史』-P791  ◎ 『残された日本人』-P145、
        ◎ 高橋幸春 『絶望の移民史-満州へ送られた[被差別部落]』 毎日新聞'95

☆ 敦化(日満パルプ)事件(吉林省)
 工場社宅がソ連軍に占拠され、連日夫人達が暴行され、ついに30余人が青酸カリ自殺をはかった。
  死にきれず助かった人は子供をいれて5名であった。
  <敦化・日満パルプ事件> 『終戦史』-P543  
   <トンホワの赤い壁 (工場資材課長吉岡幾三)>『大東亜戦史』(6)-P364


☆ 国立農事試験場 (哈爾浜)
   8月16日、場長以下45名全員自決(大部分が婦人と子供、生存1歳児一人のみ)(朝日-86・7・25)、
                                                                       (週刊新潮-86・8・7)

☆ 大青森郷開拓団  (黒河省遜克県、五戸・青森・尾上統合)
  8月13日、470人の一行は小興安嶺の未踏の密林を越え、大湿地帯を渡って、遠く1200キロ彼方の
  北安めざして南下した。道に迷い、賊に襲われ、飢えと疲労に困憊し、山中に老幼傷病者90人を残
  したが、迎えに行くことも適わず、さらに難行を続け、75日目にハルピンにたどり着いた
  (生存者176人、死者151人、生死不明143人)。
<資料> ◎ <元大青森郷開拓川崎団長の記録>『逃避行』-P326  
     ◎ <団長川崎文三郎>-『五戸郷開拓団の終焉-花なき墓標』
         ◎ <大青森郷開拓団引揚記録>『援護の記録』-P14、 
         ◎ 『国史』-P790、      
       ◎ <呼べど答えず(大青森郷開拓団)-藤原てい>-『大東亜戦史』(6)-P96、 
       ◎ <惨の極と言われる逃避行>-『殉難記』-P342
        ◎ 残留婦人(江渡美保子)(新井利男 残された日本人-P136)                

☆ 瑞穂村集団自決 (北安省綏稜県、混成)
  敗戦後、原住民に襲われ、あるいは「治安維持会」から迫害され、昭和20年9月17日未明、晴着で身を
  飾った団員たちが本部に集合次々と自決した。 総員1056名の内、 犠牲者495人の殆どが女子、子供
  だったという。 その後も犠牲者、苦難が続き、 21年5月ハルピンで生存が確認されたのは僅か71人
  (8月引揚時点、118人)であった。
<資料> ◎ 『第三次開拓団 ああ瑞穂村』-瑞穂村開拓刊行委員会 ◎『国史』-P790、 
         ◎『殉難記』-P422、◎ <満蒙開拓団最大の自決>-『逃避行-P119、 ◎ 『証言』-P134、 
         ◎ 林郁-『満州・その幻の国ゆえに』-P159、ーP179, 
         § 自決の娘は生きていたー(朝日-81・4・15)

☆ 亜州白山郷開拓団 (龍江省・富裕県、チチハル郊外、石川県) 
<資料>◎ 『開拓史』-自決356-P430、 ◎ 『終戦史』-(匪襲)自決365、生存64-P539
    §  自決350、脱出60、祖国生還30-(朝日・中国残留孤児-58・3)、 
    § 『死の選択』@〜@(朝日・残留孤児・満州崩壊-60・11・25〜)

☆ 哈達湾開拓団  (牡丹江省寧安県、秋田ー匪襲)       8月19日、 自決247名、戦死77名 

☆ 鳳凰開拓団   (北安省徳都県、岐阜-ソ連軍、匪襲)   8月24日、自決216名 

【興安三事件】
☆ 葛根廟事件                                          《慰霊碑》 五百羅漢寺(東京・目黒)
 興安総省興安街の住民東部群団と索倫・五叉溝方面からの避難民2千数百名が白城子目指し南下中、
 昭和20年8月14日午前11時過ぎ葛根廟近くでソ連軍戦車に蹂躙され、 一方絶望した人達が子供を殺して、
 自決をはかり犠牲者千数百名の惨事となった。 辛うじて生き残った人々も飢え、渇きにさいなまれ、
 原住民に襲撃されて、さらに犠牲者をだしながら荒野を彷徨した。
 (なお興安街西部群団1500名は無事南下できた)  
<資料>◎ 大櫛戊辰 『殺戮の草原-葛根廟事件の証言』(東葛飾商工新聞、昭51)、
    ◎ 大櫛戊辰 『殺戮の草原-葛根廟巡礼記』(崙書房、'96)、 
    ◎ 郡司 彦 『中国残留孤児-望郷の棄民』(日中出版、'81)
      <陳桂芝・安田美代子-[戸籍法114条、本人申立で戸籍回復]>、 
    ◎ 藤原作弥 『満洲、少国民の戦記』-(新潮文庫・'88。現代教養文庫・'95)、  
    ◎ 藤原作弥 『満洲の風』(集英社、'96)、 
    ◎ <興安嶺流亡の民・葛根廟に消ゆ 長山一> 『大東亜戦史(6)満州篇』 -P360、  
    ◎ 『シャオハイ(斎藤桂子)』-P218、   ◎ 『満州棄民』-P159  
    ◎ 良永勢伊子 『赤い夕日の大地で』-第七回読売ドキュメンタリー大賞
    §[編集手帳]-(<葛根廟事件邦人遭難の図>読売-9・5)、
          [編集手帳]-(<校長の息と判明>読売-9・19)、 
    § 戦車に踏みにじられた母や姉-(朝日・中国残留孤児-58・2・28)、 
    § 生き残った孤児迎え慰霊の同窓会(12次訪日調査-劉徳貴)-(朝日-61・9・2)、
    § 満州避難民最大の悲劇(12次-劉徳貴他5人)-(共同・愛媛-61・9・16)  
    § 「日本人」 隠し続け34年(12次-劉延久)-(毎日-61・10・24)

☆ 東京荏原開拓団 [興安南省・西科前旗]    《慰霊碑》朗惺寺(東京・小山)-(朝日-89・1・17)
  東京旧荏原区武蔵小山商店街の人達が国策に応えて転業、昭和18年から19年にかけて千余名が
  興安街西北8キロの地点に入植した。 ソ連侵攻後、 現地住民に襲撃され、終戦も知らされず、
 8月16日白城子に向け逃  避行を開始したが、 暴民に襲われ、ソ連機の攻撃を受け、双明子の青麻畑で
 自決をはかる者相次ぎ、300余名  に及んだ。 脱出組200余名も暴民に銃撃され多くの死者を出し、
 帰国できた者はごく僅かであった。
<資料>◎ 『国史』-P793、 
    ◎ <大草原の墓標・草原に散った東京開拓団-麻田直樹> 
                                 『大東亜戦史(6)満州篇』-P82 (富士書苑、昭49) [関連]同-P360、            
        ◎ <東京荏原開拓団の悲劇>『満ソ殉難記』-P346、 
    ◎ 小山商店街 歴史刊行 ◎<興安荏原開拓団の終末-副団長 足立守三>『逃避行』-P130、
    ◎ 『追跡』-P80、   
    ◎ <第13次興安東京開拓団-坪川秀夫>門脇朝秀 『祖国はるか(1)』-P213(あけぼの会刊 58)、
    ◎ <青麻畑の惨劇・自決300余人。脱出組犠牲200余人-(高橋篤)>-『シャオハイ』-P176、
    §白い墓標お守りします。千余人中、帰国百数十人 [終戦40年の夏に]-(読売-60・8・10)

☆ 仁義仏立講開拓団  [興安南省・西科前旗(興安街西方哈拉黒)東京材木町・乗泉寺信徒]         
 《慰霊碑》 乗泉寺(東京・八王子) 
  双明子西方20@ソ連軍威圧、土匪来襲、680名中 戦死・自決469、生還20。
<資料>◎『開拓史』-P430、 ◎『終戦史』-P806、 ◎『国史』-P793、 
    ◎藤原『満洲・少国民の戦記』P323、
       ◎ <大興安嶺の下で> 坂本龍彦 『満州難民祖国はありや』-P211 岩波同時代ライブラリー '95              
        § <鈴木則子-中国帰国者の会会長>(私と教育-朝日-86・10・26)、
                     (東京弁護士会人権賞、朝日-89・3・24)、(私は邪魔者でした朝日-91・1・31)
       § 全滅開拓団の生存者?-第15次・李桂琴(東京-87・2・25)

                                                             
【各地難民収容所】
 栄養失調、発疹チフス等のため多数死亡。ここでも多くの残留婦人、残留孤児を出した。

[方 正] (浜江省方正県伊漢通開拓団) 
  収容人員(〜昭21・5) 8640、ソ連軍拉致-460(5.3%・男女)、 脱走1200(13.9%)、 自殺・病死2360(27.3%)
     現地民妻2300(26.6%) 、ハルピンに出た者1200(13.9%)、 現地残留1120(13%)『終戦史』-P811
☆ 方正公墓(中国当局が近在遺体・遺骨を埋葬し、公墓建立。後麻山犠牲者を埋葬)
<資料>◎ 中国唯一の墓を守りつづける残留婦人(松田ちえ、大友愛子) 『棄民』-P114、  
    § 望郷 それでもつのる思い(朝日・我是日本人@-S61・4)、 
    § 日・中の間の「見えない溝」 墓は頻繁に破壊され作り直されている
                              (三留理男-毎日-S62・8・14)

[長 春]
 長春日本人会・医療・防疫=保健所8、擁護所40、従業員500
 (〜昭21・3)死亡25.000、  死亡率= 4歳以下56%、 60歳以上31%
<資料> ◎ 『国史・(上)』-P803、 ◎ <望郷の都・新京-望月百合子>『大東亜戦史』-P262 

[黒 河]  (旧日本軍将兵国共内戦に巻き込まれる)
 '46・4・19、 旧日本軍人(2500名)の脱出事件にからんで、黒河街の日本人200名が黒龍江河岸で
  中共軍に銃殺された。
<資料> ◎ 『国史』-P789、 ◎ 『終戦史』-P537、 ◎ <黒河収容所>-『大東亜戦史(下)』-P174、
     ◎ <第六国境守備隊史>-坂本龍彦 『満州難民祖国はありや』-P204

[嫩江]
 ソ連軍鉄道部隊が、婦女子数百名を零下40度の厳冬徹宵作業に狩り出し、凍死・凍傷続出。
  また監視兵暴行。                                     『国史』

[哈爾浜] ◎ <国際都市ハルピン>-竹田厳道-『大東亜戦史』-P230
[難民収容所−残酷なる死]                                      『証言』-P166
[哈爾浜] 述べ収容人員20万、死亡5千、  
[阿城] 収容9千、 死亡2千、 
[長春] 最も多い時期収容15万、死亡3万、 
[奉天] 最も多い時期収容10万、死亡5千 
             (乳幼児・老人半数死亡。 越冬開拓団121団,19.318人、死亡4.640人) 
 第9次張文封開拓団(栃木)収容580、死亡125。  
 第9次馬蓮河久多見(岐阜)収容180、死亡129。 ある開拓団子供125人,死亡124人、   
[撫順] 収容4万、死亡5千5百、

[関係良好、犠牲者少数・全員帰国]
◎ 哈拉蘇熊本本郷開拓団(転業者・賓州線) 
  団員の和と団結、迅速な行動、現地満人の対日好感、犠牲者・残留邦人なし    『殉難記』-P393
◎ 渾河農友開拓団(熊本・奉天省瀋陽県) 応召4名戦死以外全員帰国。 
        指導者、都市近郊、八路軍・国府軍友好                             『殉難記』-P394
§ 瑞代開拓団(斎藤政文団長・浜江省) ハルピン迄送り届けた後、食糧送り続ける(朝日・中国残留孤児-58・3)
§ 富士見村開拓団 582/773帰国  残留邦人なし  中国人・朝鮮義勇軍援助      (読売-61・8・16)


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