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岡山県高梁市


歴 史 探 訪
〜 備中松山城 〜


 市街地の北端にそびえ立つ臥牛山(がぎゅうさん)大松山に備中松山が初めて築かれたのは仁治元年(1240年)で、相模国三浦家の一族秋葉三郎重信が承久の乱に北条氏に属して功をたて、恩賞として備中国有漢郷の地頭職に命ぜられ、この地に山城をつくったのに始まる。
 以後松山城は備中制覇のための拠点として重視され、幾多の興亡を繰り返してきたが、中でも戦国時代末期、毛利と織田の勢力衝突地点としてこの地方最大の悲劇「備中兵乱」がおこり、毛利八万余騎と称する軍勢に織田方に通じた松山城は落城(1575年)し、城主三村元親は自刃した。

 現在の城郭は天和3年(1683年)時の城主水谷勝宗が臥牛山小松山(420m)に修復したもので、残っているものは天守閣、二重櫓と土塀の一部〔国指定重要文化財〕であるが、天守閣は昭和15年に修築され山城として現存する全国唯一のものである。城に名を連ねるゆかりの人は多い。
 「願わくば我に七難八苦を与へ給え」と三日月に祈った山陰の麒麟児山中鹿之助幸盛(1578年没)、徳川初期の備中代官として在城した小堀遠州、松山城の修復、新田開発、高梁川の川開き、社寺の建立や寄進等数えきれない城下開発整備に功績を残した水谷(みずのや)勝隆、勝宗、勝美三代の名君(1642年〜1693年)、水谷に跡継ぎがないため城の受け取りにきた(1694年)播州赤穂の家老大石内蔵助、幕末の難事に15代将軍徳川慶喜に仕えて幕閣最高の老中に就き、藩にあっては山田方谷(やまだほうこく)を用いて学問武芸を奨励し、経済を隆盛に導いて大いに治績をあげた板倉勝静など多彩な人物との出会いがあった。

(高梁市・高梁市観光協会発行『城下町 高梁』より抜粋)