兼 業 主 婦        2001/03/03
 先日姪のホームページを覗いたら掲示板の書き込みで専業主婦についての話題で盛り上がっていた。私も一言と思ったが、はてな私の立場は何に当たるのだろうと考えて見たが分からなくなって、すごすご引き返した。
 私が外へ出るようになったきっかけは、以前隣りに住んでいたK夫人が、知り合いからある事務所の移転の手伝いを頼まれたが、都合が悪くなったので、私に代わって欲しいというのだ。簡単な仕事だというし、それじゃと引き受けた。場所は菊名なのだが、最寄駅で責任者が待っていると言う。目印に子供が母の日にくれた造花のカーネーションを持っていく事にした。駅の改札前で待ち合わせの時間になったので、約束のカーネーションをバッグから取り出したら、隣りに先ほどからいた若い男性が、にやりとした。Y生命保険会社の所長の名刺を渡された。
 隣りのK夫人に話を持ってきた人も、K夫人も、いいかげんだが、私も私だ、はっきりした事情を知らないで引き受けたりして。菊名へは、新人採用の面接なのであった。私はその場だけ出席して、勤める気は無かったのだが、その後例の所長が、手土産など下げて足しげくやって来ては、美味しい話をしていく。ついに根負けして、午前中だけの約束で出社するはめになった。女学校の教師をしていたと言うだけあって、毎日の所長の講習は、面白かった。そのうち試験を受けさせられ、正式に社員(外務)となってしまった。私より若い女性とコンビを組んで昼休み中の企業の訪問を主にするようになった。下の息子がまだ幼稚園児だったので、一日中働くわけには、行かなかったが、私も若かったので、お客に結構好意的に接してもらえてそれなりに収入にはなった。その頃オイルショックで不景気風が吹き始め、主人の会社も業績が落ち込んでいたので、私も勤めをやめる事が出来なくなってしまい4年ほど働いた。顧客が増えてくると、アフターサービスが忙しくなり、新規の契約も取らなければならないし、PTAにも顔を出さなくては、、、。自治会の仕事もまわってきたり、ついに体が悲鳴をあげて、リタイアしてしまった。
 一年ぐらいのブランクの後、駐車場を借りている大家さんの勧めで、自宅の近くに新しく出来たボイラー関係の会社に勤める事になった。電話番だけとの話だったが、その電話の内容は、苦情が多く、ひたすらお詫びをする羽目に。ボイラーの部品の注文を受けて、手が足りないので、私が倉庫の中から取り出して発送したり、仕事から帰った人達の軍手の洗濯もあった。会社であるからには、金銭の出入りもある。頼まれた訳ではないが、帳簿をそろえて経理を見る事になった。
結構毎日面白く過ごしたが、会社が軌道に乗りだしたら、社長が取り引き会社の接待を受けて台湾旅行に行き、よほど気に入ったのか、他の社員に内緒で度々出かけるようになった。それに引き換え私の報酬はすずめの涙、一日家を空けた代償としては安すぎると、欲が頭をもたげて、もっと良い職場はないかと求人広告を見ると、手ごろなのが見つかった。先方は、1ヶ月後でも良いとの事なので、社長に話をして、後任の募集の張り紙をして、応募してきた女性の面接をして採用した。同じ名前だったので、印鑑は私のを使ってもらう事にした。
 次に移った会社は、住友金属の鉄鋼製品の製造販売会社。私の職務は横浜営業所の営業アシスタントと言った役どころ。一番の売れ筋の製品担当についていたのだが、苦情の多い部所
(軽量天井材)の電話に出て応対したのを上司が聞いていて、そちらに回された。トイレにもおちおち入っていられない忙しさだった。夢の中でも、部品の手配や、重量計算をしていた。この間に
息子達は、小学校、中学、高校と進み、PTAの役員も廻ってきて、仕事帰りに出きる会計を引き受けたりもした。長男が大学に入った頃、勤務先が浦安の方へ移転する事になって、転職せざるをえなかった。年齢も40歳になっていたので、近くに職場は見つからず、電車通勤で川崎へ出た。金型製作会社で、私はそこの会社で作った金型磨きの機械販売の営業事務だった。三井物産
を通して販売していたので、年に数回東京晴海の展示会などに出展するのだが、その時は、おばんながらコンパニオンの真似事もした。この会社でパソコンと初めて遭遇した。工場の責任者がとても熱心に原価計算方法や販売管理、品質管理等をプログラミングして、私に操作させてくれた。好奇心のあるほうなので、毎日が愉しかった。しかし円高時代に入って、輸出が伸び悩み、会社の規模の縮小方針が打ち出され、仕事を続けるなら、他へ移ったほうが良いとの上司の勧めで、求人誌で現在の職場(環境アセスメント関係)を見つけて移った。経理事務が現在の職務である。前の職場でパソコンに慣れていたお陰で、少しづつ会計処理を自動化する事ができた。いつのまにか今の職場に移って15年過ぎた。定年まで後僅かになって、親会社と連結決算をする事となり、経理処理方法も今年の4月から変わる。次の代へ移行する良い機会とも思える。この辺で、ゆっくり後任の若手をみまもりながら、無事に定年を迎えたいと思っている。駆け足で職暦を振り返って見たが、この間も私は、妻であり母でもあったと思う。どの時間に何かをしていても私自身が体験していることで、私という既婚者で子供のいる婦人が会社法人に勤めているのである。
 どれも自分では一生懸命やってきたつもりだが、どれも専らではないとも言えるのかな。結局兼業主婦が私の役どころかも知れない。
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