思   い 出       2001/03/10
                
 私は6人兄弟の末っ子として生まれた。親からも、兄弟からもたいそう大事にされて育った。
生まれた時昔風の測り方で1貫目あったと言う太った赤ん坊だったようで、商家で忙しい時期に
手伝いに来ていた娘が私を「ふきちゃん」と呼んでいたらしい。ふきとは不器量から来るらしかった
私が幼い頃、近くの劇場に芝居が掛かると、親に連れられて行って、舞台の上をそっちのけで、身振り手振りで踊っていたらしく、それならと、日本舞踊を習わされた。隣町までバスに乗って出かけるので、10歳年上の姉も一緒にお稽古するようになった。ついでにと長唄の三味線のお稽古にも行かされた。自分の意志ではなかったので、行かされたと感じていた。お稽古先に行く途中に映画館があって、私は映画を見たいとダダをこねて姉をだいぶ困らせたようだ。
 小学校の2年生の時、春祭りに踊りのお師匠さんと長唄のお師匠さんを家に招いてもてなしたが、蔵の中から、お客用に色々と取り出して用意したらしい。あくる日は、学校の運動会だった。田舎の運動会はお祭り気分で、町民も参加したり、近くの自衛隊員も参加する賑やかな行事でもあった。我が家でも家族皆で参加して、賞品を沢山稼いだ。私はその頃足が速くリレーの選手を務めていたし徒競走ももちろん一等賞。当時はあまり身なりに煩くなかったのか、親が非常識だったのか、私は生意気に髪にパーマネントをかけていたのだが、その髪に鉢巻をして走る様がインディアンを連想させるのか、悪ガキどもに「インディアンの酋長」とはやしたてられた。
 翌日は、運動会の次の日というので授業が午前中で終わり、帰るため校庭に出ると、サイレンの音がして前方に煙が高くあがっているのが見えた。我が家の方角なので夢中で駆け出した。
 火元は我が家で漏電による火災で、火の周りが早く、隣りの酒屋と屋根を接していた為2軒共全焼してしまった。 母は気がついた時は、枕を持っていたというが、階段の上の2階への入り口にかけられていた私の踊りの会の時の写真の入った額縁を持ち出していてくれた。
 その頃から、我が家はだんだん下降線をたどり、私が中学生になった頃ついに、田舎をあきらめ
東京に出て新生活に入った。今の私は、その頃の両親の年齢に達しようとしている。その当時は、苦労知らずの楽天家の私は、憧れの東京での生活を楽しんだが、現在定年近くなって前途を思うと心細い事この上ない。年金制度のお陰で生活は何とかなるだろうが、私の両親が家業を破産に追い込まれた時は、年金などないし、さぞ暗澹たる思いであったろうという事が、近頃強く感じられるようになった。70過ぎまで働いた両親も晩年は、老人会で民謡を習ったり温泉旅行を楽しむ事もあったりと、それなりに長寿をまっとうする事が出来たのがせめても救いだ。
 バレエ や ピアノ が習いたかったのにと不満もあったが、(もっともバレエは学芸会に創作ダンス、ピアノは音楽の先生が教えてくださって「人形の夢と目覚め」と「ドナウ川の漣」を音楽会で発表したり、中学1年の時は友達と音楽の先生にねだってバイエルを教えていただいたりした。)片田舎にありながら、お稽古事をさせて貰った事は、体の中に何かが染み込んで多少とも私のエキスになっているような気がする。
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