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集英社新書 2000
 巨石とともに、春には桜巨木を訪ねている。これも一つの聖地巡礼と考えているが、それでいて、自分が「なぜ聖地をめざすのか」という問いには、いまだに感覚の部分でしか答えることができない。
 本書は、私のような“迷える巡礼者”に対する格好の手引き書であり、これまで、ありそうでなかった「聖地論」の名著といってよいだろう。

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 桜に関しては、多く見てきたという経験から言わせてもらえば、日本の聖地はほぼ壊滅状態にあるということ。観光資源として保存されるか、人々の記憶から忘れさられるか、そのどちらかである。
 私たちの脳裏に、はるか古代から息づいていた「聖なるもの」という概念が、絶滅の危機に瀕していることのあらわれであり、本書で紹介されている『ピクニック at ハンギングロック』(1975)、カスタネダの『ドン・ファンの教え』(1972)、岡本太郎の『太陽の塔』(1970)、キューブリックの『2001年宇宙の旅』(1968)、ブニュエルの『銀河』(1968)など。これらの名作の感動も、中年オヤジの懐旧談に終わり、いつしか忘れさられることである。
 このままでは、ディズニーランドが日本の聖地に取って代わるのではと、なんともトンチンカンな心配をせざるをえない。いま、改めて「聖地とはなにか」を考察することの意義は極めて大きいと思う。

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 本書は、冒頭に以下の9つの「聖地の定義」を掲げ、各章においてそれぞれの定義を例証し、考察するというスタイルをとっている。

 01 聖地はわずか一センチたりとも場所を移動しない。
 02 聖地はきわめてシンプルな石組みをメルクマールとする。
 03 聖地は「この世に存在しない場所」である。
 04 聖地は光の記憶をたどる場所である。
 05 聖地は「もうひとつのネットワーク」を形成する。
 06 聖地には世界軸 axis mundi が貫通しており、
    一種のメモリーバンク(記憶装置)として機能する。
 07 聖地は母体回帰願望と結びつく。
 08 聖地とは夢見の場所である。
 09 聖地では感覚の再編成が行われる。


 01の「聖地はわずか一センチたりとも場所を移動しない。」が、9つに分類された定義のベースになっている。

 「宗教では祀られる神さまがもっとも重要に見えるが、実は時代の変化にともなって祀られる神さまはころころ変わる。それなのに、一見たいしたことでないように見えるものが変化しない。神話についても、その場所で隆盛を極める宗教によって、その内容は刻々と変化するが、不思議なことに「ある場所である神が怪物を退治した」というようなモチーフだけは、いくら宗教が入れ替わっても変化しない。」

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 聖地の定義に関しては、01、02あたりが理解できれば、十分ではないかと思う。他の定義は割愛し、本書中程にある「巡礼」という章に注目したい。フランス中部の都市ル・ピュンにあるサン・ミシェル・デギュイユ教会と、スペイン北西部のサンティアゴ・デ・コンポステラに至る著者の旅であり、本書の副題「――なぜ人は聖地をめざすのか」を念頭におく部分である。

 「ぼくはフランスを通ってスペインの北西の果てまで幾重にも引かれた巡礼の道筋を車で歩破しようと考えた。しかし、巡礼そのものに興味があるわけでもないし、キリスト教に格別の関心があるというわけでもない。ただ、なぜそれほど多くの人々が一か所を目指して集まったか、その隠された理由が知りたかったのである。」

 キリスト教三大聖地の一つサンティアゴ・デ・コンポステラに辿り着いた著者は、そこで何をみたのだろう?

 「ぼくには、やっぱり聖地には宗教以前の深層に起源があるとしか思えない。ここもかつては別の宗教の聖地であったと聞く。さまざまなものが収束し、離散する。しかし、聖地だけは決して動かない。ここガリシア地方には、どちらかというとキリスト教以前のケルトやそれ以前の宗教の匂いが残されている。それらさまざまな宗教が重層化した起源に向かう働きこそが巡礼の意味なのではないか。」

 今一つ、歯切れが悪いように思う。次いで、パウロ・コエーリョの『星の巡礼』(1987)から、次のような言葉を引用をしている。

 「旅に出る時は、われわれは実質的に、再生するという行為を体験している。今まで体験したことのない状況に直面し、一日一日が普段よりもゆっくりと過ぎてゆく。ほとんどの場合、土地の人がしゃべっている言葉を理解することができない。つまり、子宮から生まれてきたばかりの赤子のようなものだ。だから、まわりにあるものに、普段よりもずっと大きな重要性を感じ始める。生きるためには、まわりのものに頼らねばならないからだ。困難な状況におちいった時、助けてくれるのではないかと思って、他人に近づこうとするようになる。そして、神が与えてくれるどんな小さな恵みにも、そのエピソードを一生忘れることがないほどに大感激したりするのだ。」

 続いて、ヴィクター・ターナーの『象徴と世界』(1981)からも引用されているが、『星の巡礼』と同様、今一つピンとこない。
 結局、巡礼とは、著者がブルゴスからレオンに至る道程で抱く感慨、

 「走れども走れども何もない。いくつかの難所を越えるのもたしかに骨が折れただろうが、来る日も来る日も延々と同じ風景が続くというのも結構つらいものだったのではなかろうか。さまざまなことが思い出されてくる。考える時間だけはほぼ無限に用意されている。」

 に、帰り着いてしまうのか。しかし、それでも大丈夫「考える時間だけはほぼ無限に用意されている」のだから。

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『聖地の想像力――なぜ人は聖地をめざすのか』
植島啓司[著] 集英社新書(2000)