◎◎ 写真をクリックすると amazon.co.jp につながります


平凡社 1998
 著者が住む山梨県内の石神に関するエッセー集。
 第一部に、1. 石と民間信仰 2. 丸石神の謎 3. 性の石神 4. 庚申 5. 馬頭観音 6. 石投げ合戦考。第二部に、昭和48年に単行本として刊行された『山梨県の道祖神』(道祖神についての定説、道祖神の石祠、道祖神の文字碑、単神の道祖神像、石棒の道祖神、異形な石の道祖神、道祖神の祭ほか)が収録されている。
 序は近親である網野善彦氏(2004年2月没)、解説を息子の宗教学者・中沢新一氏が書いている。その解説の中に、よく父のお伴をしたという新一氏による「調査行」の様子が記されている。必需品はカメラ、巻き尺、ノート、地図、それに亀の子たわし――。少し長いが、巨石巡礼者としては興味ある部分なので引用させていただく。

 「……石の神にであったとき、彼はまず全体をなでまわすように目でいつくしんだあと、ポケットから亀の子たわしをとりだして、長年の無視や無理解によってすっかりほこりや苔におおわれてしまった神の像を、磨きあげてやることからはじめた。これは、写真芸術の目から石の神たちに興味をいだいて土地にやってきたカメラマンたちには、けっしてほめられないやりかただったが(苔むした石の仏こそ、被写体にふさわしいものとしていたのだから)、彼の「思想」にとっては、それが石の神を遇するにふさわしい方法だと思えたのだ。それから石の台座や像の背面に彫り込んである文字を読み取る。巻き尺で大きさを測り、いそいでノートに書き込む。そして、ようやくカメラの番がやってくるのだ。
 被写体にむかいあってからが、長かった。これは感光乾板をつかった、石仏の写真をとっていたころ以来のくせで、カメラをはさんで石の仏や神との長いにらみあいのあと、ようやくシャッターがおろされた。こういう撮り方をしていたために、ひとつひとつの像について撮られた写真の枚数は、あまり多くはない。そのかわり、昔撮られた石の神仏たちの肌は、いまでも粒だって見えるように、鮮明だ。彼はそれが造形的におもしろいということだけでなく、まさに像が石によってつくられ、石のなかからあらわれてでてきたものだ、という点を強調したかったのである。……」

 著者はこの愛すべきスタイルで、甲斐地方の石神をくまなく調べ上げていく。自転車やバスで乗りついでいける一地方のフィールドワークだが、石への愛情と好奇心はすさまじく、縄文時代から現代の学生の投石にいたるまで、日本の石文化に対するユニークな視点と洞察力は、地方の郷土学者の域をはるかに超えている。
 柳田国男の『石神問答』、折口信夫の『霊魂の話』『石に出で入るもの』さえも、著者は物足りなく感じていたようだ。「丸石神を足にまかせて尋ね回って、丸石が語りかけてくる声なき声を聞いてみた」という言葉に著者の矜持がみてとれる。

 最後に、甲斐地方特有の丸石神とはいかなるものか。最大の丸石は山梨県七日市場のもので直径1.1m。これほどの巨石は珍しいが、10cmから4、50cmほどの丸石を祀る道祖神は山梨県内には約700ヶ所もあるという。(私も、山梨県北杜市白州町の白州殿町のサクラを訪れた際、祠の前に置かれた大小6つの丸石に出会い驚喜する経験をもった。)しかし、近隣諸県になると、東京都の山梨県に隣接するわずかの山村、神奈川県津久井郡の一部、静岡県の伊豆地方、長野県の一部に見られるだけであり、遠隔地では、紀伊半島の南端部、枯木灘にそった山間の村々に見られる程度という。考古学的には、山梨県北巨摩郡大泉村の金生遺跡の縄文後・晩期遺跡や秋田県の大湯環状列石の中心部でも発見されている。
 丸石の成因については、著者自ら富士川の上流の笛吹川や重川、日川などの河原を幾日も丸石を求めて歩いてみるが、これなら道祖神の丸石によかろうという石を得たのは、ただの一、二個にすぎなかった。この結果から、丸石が海波や河流による転々反復の摩滅によりできるとする定説を疑問視する。その時に出会ったのがアメリカの学者スターリング博士の説である。この説は「山梨岡神社(石森山)」の項で紹介している。

 他にも、馬頭観音、 石投げ合戦考……と、著者の独創的ともいえる思索に興味は尽きない。

 長らく品切れだったが2009年11月に復刊された。