江戸時代安政年間(1854-60)は三度の巨大地震に見舞われる。
1854年12月23日(安政元年11月4日)午前9時すぎに、駿河湾から遠州灘、紀伊半島南東沖一帯を震源とする安政東海地震が発生した。マグニチュードは8.4。ちなみに阪神淡路が7.3である。伊豆下田では、地震の15分から20分後に津波の第一波が押し寄せ、4〜6mの大波が正午までに7、8回発生し、948戸中927戸が流失、122人が溺死したという記録が残されている。
安政東海地震からわずか32時間後の12月24日(11月5日)午後4時ごろ、南海道沖の海域にマグニチュード8.4の「安政南海地震」が発生。倒壊家屋地域は中部、近畿、四国、九州に及ぶ。
翌55年11月11日(安政2年10月2日)午後10時ごろ、江戸を中心とした直下型の安政江戸地震が発生。震央は荒川河口付近でマグニチュード6.9。家屋倒壊1万4000戸以上、死者は1万人を越えるといわれる。
◎◎◎
河内の大石は、安政東海地震とその後の水害がもたらした巨大な置き土産である。もとはこの地より1.6kmほどの興津(おきつ)川の上流、真富士山(1345m)の中腹にあったが、安政東海地震で崩れ、翌年8月の豪雨で土石流となってここまで流れ着いた。高さ19m、周り60mという巨石を1.6kmも押し流す自然の力は、およそ想像を絶している。
その折の里人の恐怖と驚きは、下記の案内板「日本一安産石由来記」に、生々しく描写されている。
山から里に滑り落ちた大石を、里人は「山の神」の化身として崇めてきた。山の神は十二様ともいって、一年に12人の子を産むとされるなど、生殖能力の強い神とされる。河内の大石が「安産石」と呼ばれるのも、こうした山の神の豊穣性にあやかろうとする里人の祈願だったのだろう。
◎◎◎
2008年3月1日撮影
|
大石の傍らを流れる興津川。
大石の片隅に祀られている大石神社。 安産の神としても知られる。
|