流紋岩の割石でつくられたで階段式ピラミッド。全高約3.5m、基底部の長さは約12mある。


南面から。石積みの下には、弥生時代以前より原始信仰が行われていたという巨大な磐座(いわくら)がある。


南東角から。熊山の山頂一帯は、もともと古代備前の人々にとっての祭祀場であったが、
のちに仏教が入って来て、熊山石積遺構が築かれたものと思われる。


第2段の基壇中央にある龕(がん)、仏像などを納める厨子と思われる四角い横穴。

 岡山県赤磐市(平成17年3月、赤磐郡内の山陽町、赤坂町、熊山町、吉井町が合併して誕生)にある備前一の高峰熊山(508m)の山頂付近に、中南米やインドネシアなどで多く見られる階段式ピラミッドの石積み遺構がある。
 正方形の基底部の上に3段の基壇を重ね、各面は正確に東西南北を向いている。全体の高さは約3.5m。各辺の長さは基底部が約12m、初段が約7.7m、2段は約5.2m、3段は約3.5mで、第2段の各面の中央には、龕(がん)と呼ばれる棚状のくぼみが設けてある。
 案内板によると「石積の中央には、竪穴の石室(約2m)が作られていて、その石室に陶製の筒形(5部分に分けられる)の容器(高さ約1.6m)が収められていた。この陶製の筒の中に、三彩釉の小壺と文字の書かれた皮の巻物が収められていた。と伝えられている。」とある。
 文末の「と伝えられている」というあいまいな表現は、この石室が昭和12年に盗掘にあい、三彩釉の小壺と巻物なるものの所在が確認されていないためだろう。筒型容器は奈良県天理市の天理大学に収蔵されている。
 続いて、「陶製の筒形容器と三彩釉の小壺からみて、本石積遺構の築成年代は奈良時代前期で、三段の石積の仏塔と考えられる。」と記されている。

 奈良時代前期とは、都を平城京に遷した710年(和銅3)から聖武天皇退位の749年(天平勝宝1)ころを指す。三彩釉の小壺とは奈良時代から平安時代にかけて焼かれた、日本最古の施釉陶器・奈良三彩のこと。案内板の仏塔説は妥当なものと思われるが、気になるのは、次に書かれた「熊山山塊には、現在大小32基の石積の跡が確認されている。国指定の石積遺構に類似しているが、築成の目的、年代、築成者などは異なるものと思われる。」の部分である。熊山の標高350m以上の山中に、全国にも類がないという石積み遺構の仏塔を32基もつくったとは考えにくい。これを読むかぎり墳墓説も捨てられないと思えるのだが。

◎◎◎
2007年3月15日撮影
案内板
 
 









熊山神社本殿。

案内板