岩神神社の境内に至る最後の急坂。鳥居ならぬ注連柱が見える。


岩神神社 拝殿。奥に磐座群が鎮座している。


祠の後ろに神岩、その奥に八畳岩、畳岩がある。


巨石群の一番奥にあるゆるぎ岩(市指定文化財)。


 近年では頭の良くなる神様が祀られていると言われ、一見して落ちそうで落ちないところから受験生に人気がある。
 赤磐市小原と赤磐市塩木を結ぶ県道257号線(坂辺吉井線)を北に進む。惣分(そうぶん)の八幡宮を過ぎるとすぐに、右に「岩神神社」の看板、左に「岩神」と彫られた石碑が見えてくる。石碑の先の県道路肩が「岩神神社」の駐車スペースになっている。

 看板には「岩神神社 ここより徒歩20分」とある。道沿いの家の人を見かけたので「ゆるぎ岩はこの道ですか」と声をかけてみた。「そこの山道から入っていきなさい。お祭りの日に来ればよかったのに。そのときに山道を清掃したから、歩きやすくなっているよ。普段は草が茂って登るのが大変だからね」と教えてくれた。お祭りは毎年4月の第3日曜日に行われている。10日ほど遅かったようだ。

 岩神のゆるぎ岩は、惣分地区の岩神山(240m)の南の中腹にある。鬱蒼とした樹林の迫る山道を休み休み登っていくと、本参道と裏参道の岐れ道に差しかかる。本参道コースには「近道 急坂」と案内がある。この急坂が最後の踏ん張りどころだ。でこぼこの石段を上り、2本の石柱に注連縄を渡した注連柱をくぐると、明るく視野がひらけて、平坦で開けた岩神神社の境内にたどり着く。

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 境内にはささやかな拝殿があるのみで、その後方(東側)一面に大きな自然岩が群がっている。この巨石群が当社のご神体で、小祠の背後には神岩(長さ3m、幅1.8m、高さ0.9m)、八畳岩(長さ5.5m、幅4.3m、高さ3m)、畳岩(長さ6m、幅3.1m、高さ2.5m)が連なり、その右横には烏帽子岩(長さ3m、幅1.5m、高さ2.5m)と名付けられた磐座が鎮座している。ゆるぎ岩はこれら磐座群のいちばん奥にあって、その特異な姿からひときわ目を引く岩神神社のシンボルとなっている。

 ゆるぎ岩の上岩は、船に似ていることから「船岩」と呼ばれており、大きさは長さ5.2m、幅1.8m、高さ0.9m。船岩を支えている中岩は、長さ5m、幅2.5m、高さ1.5m。2つの石の台となっている下岩は、長さ6.7m、幅4.6m、高さ3m。この3つの岩が重なり合って、シーソーのように微妙なバランスを保つ自然の妙を造り出している。(岩の大きさは神社の説明書きによる)
 船岩が中岩と一点で接し支えられているため、人の力で船岩を上下に揺り動かすことができるという。恐る恐る試してみたが、私の非力ではビクともしなかった。

 一見、人工物にも見えるこの不思議な造形を、何と理解したらいいだろう。NPO法人 地球年代学ネットワークの調査によると、ゆるぎ岩は後期白亜紀(約1億年前〜6500万年前)に地下深所のマグマが冷えて固まった花崗岩で、節理にそって割れ、風化していく過程でこのような形になったとされている。
 地質学的にはこのように説明されているが、それでも今ひとつ釈然としない。見れば見るほどミステリアスな、謎に満ちたオブジェに思えてくる。

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 当社の創建年代は不詳であるが、祭神は八千矛神(やちほこのかみ)となっている。八千矛神は大国主神(おおくにぬしのかみ)の異名の一つで、多くの矛(ほこ)を持つ神の意とされている。一説には、古代において「矛」は武器ではなく、悪霊をはらう宗教儀礼の用具として使われていたという。

 この矛が、いつの間にか刀にとって代わり、江戸時代、備前岡山藩の第9代藩主・池田茂政が参った折には、黄金づくりの脇差が奉納されたという。以来、大願成就のお礼に日本刀を奉納するのが慣例となり、最近では手製の木刀や模造刀が納められているという。

 神社の由緒に、以下のような伝承が記されている。
 『昔、船岩がなぜか崖下に落ちた。すると近郷では悪病が流行し、大いに苦しんだ。そこで里人達は山上に登り祈願をしたところ一夜のうちに、船岩は元通りになっていた。多分天狗の仕業であろうと里人は言い合った。岩の上には今でも天狗のつめ跡が残っている。』

 この伝承によると、「里人達は山上に登り祈願をした」とあるから、神様は岩神山の山上に鎮まっているように思われる。神社の付近にも、これに類した花崗岩の巨石群が見られるが、岩神山の山頂にも巨石群があるという。古代においては、岩神山が礼拝の対象となる神体山とみなされ、当社がその遥拝所であったとも考えられる。元々は、山の神、水の神として崇敬されていたのではないだろうか。

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2017年4月25日 撮影


県道沿いにある「岩神」の碑。奥の脇道から山道に入る。


烏帽子岩。
この岩も微妙なバランスによって保たれてる。


案内板