旧暦10月の「神在月」には、全国から八百万の神々が出雲に参集し、稲佐の浜に上陸するという。


稲佐の浜のシンボルとなっている弁天島。島上の祠には、豊玉毘古命が祀られている。


波による浸食はかなり進んでいる。


荒涼とした岩肌。赤っぽい石質のなかに白色の流紋岩が混じっている。
 出雲大社から西へ約1km下ったところに、国譲り神話の舞台として知られる「稲佐の浜」がある。
 国譲りは、天津神(あまつかみ)の天照大神(あまてらすおおみかみ)が、国津神(くにつかみ)の大国主命から葦原中国(あしはらのなかつくに)の支配権を一方的に譲り受ける説話である。
 『古事記』によると、天照大神は「葦原中国を統治すべきは、天津神、とりわけ天照大御神の子孫だ」とし、2度にわたって出雲に使者を送り出すが、いずれも大国主を説得することができなかった。そこで天照大神は、最後の切り札として、武神の神格をもつ建御雷神(たけみかづちのかみ)に天鳥船(あめのとりふね)を副えて、出雲の国に派遣する。

 稲佐の浜に降り立った建御雷は、十掬の剣(とつかのつるぎ)を抜き、砂浜に剣を逆さに突き立てて、なんとその切っ先の上に胡坐をかいて座り、大国主に国譲りを要求する。
 それに対し大国主は、私の一存ではいかない。息子である事代主神(ことしろぬしのかみ)が返答するでしょうという。美保の碕から呼び戻された事代主は、天照大神の考えをすんなり承諾すると、乗っていた船の脇板を踏んで傾け、天の逆手(まじないを行う際に普通とは逆のやり方で打つ柏手)を打って、船を幾重にもはりめぐらせた青柴垣(神籬)に変え、その中に隠り、姿を消してしまう。
 もう一人の息子の建御名方神(たけみなかたのかみ)は、力競べをしようともちかけて、建御雷の手をつかむ。するとその手は氷柱(つらら)に変わり、さらに剣となった。恐れをなした建御名方は遁走するが、信濃国の諏訪の地で建御雷に追いつかれ、敗北を認め、服従を誓う。

 出雲に戻った建御雷は、あらためて大国主に国譲りを強要する。大国主は「二人の息子の申すとおりに、この国を献上いたしましょう。ただし、私の住む所は、天津神の御子と同じくらい大きな宮殿を建ててほしい。地底の岩盤に太い宮柱を立て、大空に千木(ちぎ)を高々と聳えさせた神殿を造ってくれるなら、私は遠い遠い幽界に隠退しておりましょう」といった。

 こうして大国主は、天照大神に葦原中国を譲ることになるが、その代償として建てられたのが、古代最高の高層建築・出雲大社(杵築大社)であるといわれている。

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 稲佐の浜には、高さ20mほどのひときわ目を引く巨岩「弁天島」が聳えている。
 島の上には鳥居と祠があり、かつては弁財天が祀られていたが、現在では海神・大綿津見神(おおわたつみのかみ)の娘である豊玉毘古命(とよたまひこのみこと)が祀られている。古くは「沖御前」といわれ、遥か沖合いに浮かぶ島であったが、昭和40年代から浜の堆砂がはじまり、今では島の前まで歩いていけるようになった。

 旧暦の10月(現在の新暦では11月)、出雲においては神在月(かみありづき)と呼ばれるこの季節、出雲には「あなじ」と呼ばれる冷たい北西の風が吹きはじめ、海の荒れる日が多くなる。地元では「お忌(い)み荒れ」ともいわれる暗澹としたこの時節に、しばしば、黒潮の流れから押し出された海蛇が、稲佐の浜に打ち上げられる。海蛇の学名はセグロウミヘビと呼ばれ、背側が黒く、腹側は黄褐色、体長は60〜90cm程度。鋭い牙には強い毒をもつという。

 出雲地方では、この海蛇を「龍蛇さま」と呼び、八百万の神(やおよろずのかみ)が出雲に参集される「神在祭」のときに、神々を先導する大国主の使者とされ、篤く信仰されてきた。出雲大社では、江戸時代までその神職が、稲佐の浜に近い仮宮に籠って、龍蛇の到来を待ったという。また、出雲大社の神紋「亀甲紋」は、この海蛇の尾に浮かぶ亀甲模様が原型になったといわれている。

 この「龍蛇さま」を奉斎する神事は、出雲大社だけでなく、出雲の海岸一帯の古社で現在も執り行われており、日御崎(ひのみさき)海岸に上がった龍蛇は日御埼神社へ、北浦海岸に上がった龍蛇は佐太(さだ)神社に奉納される。
 奉納された「龍蛇さま」は、日干しにされ、「甑(こしき)立て」といわれる円錐形のトグロを巻いた形に整えられる。これを「三方」と呼ばれる神饌をお供えする台に載せて仮本殿に奉安され、神在祭の期間中は、一般の人も奉拝することができる。

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 民俗学者の新谷尚紀氏は『神々の原像 祭祀の小宇宙』(吉川弘文館)のなかで、出雲の龍蛇信仰を出雲独自の信仰形態と捉え「海上より来臨したその神霊は 大和の三輪山に奉祀されて大和王権を守護する神霊になった」と述べている。
 出雲の龍蛇信仰が、いつごろから始まったのかは明瞭でないが、大和王権が出雲を平定したとき、大和王権にとっては畏怖の対象であった蛇神祭祀の習俗を、大和のなかに取り込んだとする新谷氏の仮説は興味深い。

 周知のとおり、三輪山の祭神・大物主神は蛇の姿をし、出雲大社の祭神・大国主神の和魂(にぎみたま)とされ、同一神とされている。三輪山以外にも、大和地方には大国主を祀る出雲系の神社がきわめて多い。これは、大和朝廷が成立する以前に、出雲族の文化が大和に滲透していたと考えて、まずまちがいないだろう。

 なお、出雲と海の関係について、第82代出雲国造・千家尊統(せんげたかむね)氏は、『出雲大社』(学生社)のなかで、「この龍蛇さまが大社の西、稲佐の浜によってくるということは、大社神殿の神座が西方稲佐の浜の方向に向いていることと、おそらく無関係ではないであろう。それというのも、もともと大国主神は、海の彼方常世(とこよ)の国から憑りきたれる霊威であったのではないだろうか。」と記している。
 一般的に大国主は、農業神、商業神、医療神、縁結びの神として知られ、内陸的な神の性格が強いとされている。しかし、千家氏の記述から、大国主に海洋神の性格がひめられていることが読み取れる。稲佐の浜と出雲大社のつながりのなかに、古代出雲の南方的、海人的要素が色濃く残されている。

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2016年4月27日 撮影

出雲大社本殿の復元模型(島根県立古代出雲歴史博物館)
現在の本殿の高さは24mだが、
平安時代には48m、
さらに昔には96mもあったといわれている。




大社龍蛇の掛け軸(島根県立古代出雲歴史博物館)
火除け、水難除け、商売繁盛の神様としても人気がある。
トグロを巻いた蛇の形は、
しばしば神奈備山の山容に見立てられる。

出雲大社・本殿背面。本殿内部の大国主の神座は、西方にある稲佐の浜(写真では右方向)を向いている。