塩津町の人口は151人、世帯数64(H28.10.31現在)。雨のせいだろうか、港付近に人影はなく車もほとんど走っていない。


路地を入った高台にある石上神社。社殿の背後には崖が迫っている。


表だけ見れば、どこにでもある小さな村社のたたずまいである。


ご神体の霊石は、緑のシートにくるまれて、その周りにたくさんの幣帛が立てられている。


本殿裏の玉垣のなかにご神体の霊石が鎮座している。
 日本海に面した塩津浦(しおつうら)、波が打ち寄せる海岸の背後には急崖が迫り、山上には風力発電の3枚プロペラがゆっくりと回っている。北西の季節風が吹き荒れる冬季には、さぞかし強烈な風と荒波が押し寄せるのだろう。
 石上(いしがみ)神社は海岸道路から路地を数10m入った高台に鎮座している。どこにでもありそうな無人の村社だが、本殿の裏にまわると、木製の玉垣のなかに一風変わった姿のご神体が鎮座している。

 ご神体の霊石は、緑色のシートにくるまれて、その周囲にたくさんの幣串(へいぐし)が立てられている。シートと幣串に包まれた円錐状のシルエットのなかに、どのような石が祀られているのか、その形状をうかがい知ることはできない。
 それにしても、このようなシートにくるまれた磐座を見るのははじめてである。古来日本では、神は人間の目には見えない不可視の存在と考えられていた。当社のご神体も、見てはならない霊石として、このような覆われたかたちで祀られているのだろうか。いつから、なんのために? その意図をはかりかねる。

 『雲陽誌』(1717年)楯縫郡塩津の条には「石上明神 社ナシ幣帛ヲ立ルナリ」と記されているので、江戸時代中期には社殿はなく、ご神体だけが幣帛のなかに祀られた神社だったと思われる。

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 ご神体の来歴について、境内の案内板には、平安時代の延久元年(1069)に起きた大津波により、神社も人家も流失し、霊石も海に流されてしまった。その後、復興がすすんだときに、里人である松村家の祖先某に、ご神体である霊石が大浦沖の二ツ平島の海底に沈んでいるという神のお告げがあり、これを海から引き上げて、現在の社地に奉還した。
 以来、この霊石を土地の人々は「石神様」と呼んで崇敬したが、これが「石上」に転訛し、やがて同名の大和国の石上(いそのかみ)神宮に仮托されて、かつての祭神であった海童(和田津見命(わたつみのみこと))を、石上神宮の祭神・布都御魂命(ふつのみたまのみこと)と誤ったものと思われる。と記されている。

 この由緒記によると、当社と大和の石上神宮は、まったく関係ないように思えるが、果たしてそうだろうか。
 一説には、当社の旧社名は『出雲国風土記』に記載されている宇美社(うみのやしろ、楯縫郡沼田郷)であると伝えられている。現在「宇美社」は、式内・宇美(うみ)神社として、当社から南に約6km離れた出雲市平田町に鎮座している。祭神は当社と同じ布都御魂命で、由緒には「社号「宇美」の起因は、祭神布都御魂神が出雲国にご来臨の際、海上より御上陸になったところからこの社号あり」と記されている。

 こうした伝承をもとに、原田常治氏は 『古代日本正史─記紀以前の資料による』(同志社)のなかで、布都御魂はスサノオの父であり、饒速日(にぎはやひ)の祖父であるとして、布都御魂が朝鮮半島から日本海を漂流して塩津浦に辿り着き、そこでスサノオを産んだのだという、一見強引とも思える仮説を唱えている。

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 スサノオを新羅(しらぎ)からの渡来神とする説は、水野祐氏(『古代の出雲』)をはじめとして多くの論者が指摘するところである。その論拠の一つとされているのが『日本書紀』神代第八段の一書第四の記載で、高天原で乱暴狼藉をはたらき追放されたスサノオは、息子の五十猛神(いそたける)とともに、新羅国の曽尸茂梨(そしもり)という所に舞い降りた。 ところがスサノオは、何を思ったのか「私はこのような地には住みたくない」と揚言して、埴土(赤土)で舟を造り、その舟に乗って東に向かい、出雲の斐伊川の川上の鳥上峰(とりかみのたけ)へ到ったというのだ。

 このとき、日本海を渡りやっとの思いで辿り着いた上陸地が、石上神社のある塩津浦付近であったする原田氏の説には、大いに興味をそそられる(「スサノオ誕生の地」説には抵抗があるが)。
 また、石見国の五十猛海岸(島根県大田市)にも、「スサノオが息子の五十猛命を連れて、朝鮮半島からの帰途、この地に上陸した」とする伝承が残されている。
 出雲を含む山陰地方の海岸は、北九州に次いで渡りやすいところであり、推進力の弱い古代船では、朝鮮半島南沿岸から出航すると、対馬暖流に流され隠岐国・出雲国地方に漂着する可能性は高かったといわれている。

 原田氏の「塩津浦=布都御魂上陸説」をとれば、塩津浦に上陸し、のちに住みやすい内陸部の宇美神社に移動したと考えられるので、石上、宇美の両神社が、布都御魂を祭神として祀っているのも不思議ではない。

 布都御魂はご神体の布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)が神格化した神とされ、一説には、スサノオが八岐大蛇を斬ったときの十握剣が、この布都御魂剣とも伝えられている。また、布都御魂を祀る大和の石上神宮は、周知のとおり物部氏に関係の深い神社であり、天武天皇の時代(673〜686年)には、物部氏から石上氏(いそのかみうじ)に姓を改めている。

 さらに付け加えるなら、『出雲国風土記』には、塩津浦のある楯縫郡の郡司、主帳として物部臣氏の名を記されている。郡司は郡を治める地方官で、そのほとんどはそこに住んでいた地方豪族から選ばれていた。石上神社のある塩津浦、宇美神社のある平田町付近は、古代において物部氏の支配化にあったみてまちがいないだろう。

 こう考えてみると、石上神社の祭神・布都御魂にもその可能性は十分にあると思えるが、あえて誤ったものとしている由緒記には、どこか不自然さが感じられる。

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2016年4月28日 撮影

県道23号沿いの電柱に掲げられた
「神祇官社 宇美社「出雲国風土記」掲載神社」の案内板。



明治4年に船守神社に合祀されるが、
明治9年に復興、大正11年に村社に列せられた。
境内社には須佐之男命も祀られている。


案内板