鳥居の両脇に、出雲国風土記で「宍道」の地名由来となった猪石が2つ横たわっている。


古代、猪・鹿などの獣肉を「シシ」といった。風土記記載の化石譚から大国主の狩猟神の姿が浮かび上がってくる。


鳥居をくぐって左手の「猪石」。その奥にも巨石がみられる。


拝殿。当社に本殿はなく拝殿のみである。


拝殿後方の玉垣の中に鎮座するご神体の「犬石」。なるほど座っている犬のように見える。


犬石。石は出雲石とも呼ばれる来待(きまち)石で、松江市玉湯町から宍道町白石にかけての範囲で露出している。
凝灰質砂岩でコケがつきやすく、石灯籠などに適しているという。
 石宮(いしのみや)神社は、宍道湖南岸より斐伊川水系の同道川を南に約1km遡った、山陰自動車道の手前に位置している。道路沿いに石の鳥居が見えるのでわかりやすい。

 当社の境内に、『出雲国風土記』の意宇郡(おうぐん)宍道の郷(ししぢのさと)条に記された犬と猪(しし)の形をした霊石が鎮座している。参道入口の鳥居の両脇にある2つの石が「猪石」、拝殿後方の玉垣の中にある石がご神体とされる「犬石」である。

 『出雲国風土記』に、天の下造らしし大神(大国主命)が、狩りのときに追いかけた猪と、それを追う犬が石に転じたという記述があり、この化石譚が「宍道(しんじ)」の地名由来とされている。「宍道」は「猪が通った道」の意で、「猪」が「宍」と表記されるのは、「宍」は肉の俗字で、古代、猪・鹿などの獣肉を「シシ」といったためという。

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 『出雲国風土記』荻原千鶴 現代語訳(講談社学術文庫)より、犬石・猪石に関する部分を引用する。

 「宍道の郷。郡役所の真西三十七里[19.8キロメートル]。天の下をお造りになった大神命が、狩りで追いかけなさった猪(しし)の像が、南の山に二つある。一つは長さ二丈七尺[8.0メートル]、高さ一丈[3.0メートル]、周り五丈七尺[16.9メートル]。一つは長さ二丈五尺[7.4メートル]、高さ八尺[2.4メートル]、周り四丈一尺[12.2メートル]。猪を追う犬の像。長さ一丈[3.0メートル]、高さ四尺[1.2メートル]、周り一丈九尺[5.6メートル]。その形は、石となっているが、猪と犬以外のなにものでもない。今でもなお、存在している。だから、宍道(ししじ)という。」

 上記[ ]内の数値は、天平尺(唐大尺)の1尺=29.7cmで換算された数値である。下の服部亘氏による実測値に比べると、約10%ほど小さくなっているが、これを新井宏氏の提唱する1尺=26.7cmの「古韓尺」で換算すると、風土記の数値とほぼ一致する。

【服部亘氏による実測値】
 猪石A:高 267cm、長 715cm、周 1,515cm
 猪石B:高 213cm、長 675cm、周 1,367cm
 犬石:高 106cm、長 250cm、周 509cm
(資料「『出雲風土記』に現れた「古韓尺」」新井宏 より引用)

 この「犬石・猪石」の存在が根拠となって、当社が『出雲国風土記』に記載されている「宍道社」であり、『延喜式神名帳』の完道(宍道)神社の比定地とされている。しかし、「南の山に二つある」とされる「猪石」については、異説もある。
 延喜式の完道(宍道)神社には3つの論社があるが、その一つである大森神社が所有する「女夫岩」(宍道町白石)も「猪石」の候補地に挙げられている。
 私見では、石の実測値が風土記の記載と合致していることから石宮神社説を採りたいが、いまだに定説は得られていない。

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 平成8年(1996)、雲南市の加茂岩倉遺跡から発見された39口の銅鐸のなかから、鹿2頭と四足獣(猪と思われる)を描いた絵画銅鐸(23号銅鐸)が出土した。出雲独自の文様であることから、弥生時代の紀元前2〜1世紀に出雲周辺で作られたものと考えられている。
 銅鐸に描かれた猪の絵と、大国主の伝承を結びつけるのは、まったくの見当違いと思われるかもしれないが、島根県立古代出雲歴史博物館で実物の23号銅鐸を前にして、鹿や猪を追う大国主の姿が脳裏に浮かんできた。

 一般には、大国主は国造りの神、農業神、商業神、医療神、縁結びの神として知られているが、出雲の神・大国主には、狩猟神としての性格も大きかったのではないだろうか。風土記の神話には、猪に象徴される狩猟民が、農耕技術をもたらした渡来系弥生人に征服された事実を反映したものと捉える説もある。
 狩りで追われる猪と、それを追う犬が、石と化して風土記の地名起源譚に残されていることの意味は、犬石・猪石の化石譚を媒介にして、狩猟神・大国主の偉大さを際立たせるための伝承とも考えられる。

 当社のご神体は、拝殿後方に鎮座している「犬石」である。いうまでもないが、ただの猟犬が、石と化してご神体になったわけではない。石と化して、天の下造らしし大神(大国主)に仕えることで、斎(いつ)き奉(たてまつ)られるご神体となったのである。

 おそらく風土記の時代以前には、地域の守護神である産土神(うぶすながみ)として祀られていた石であったが、風土記編纂の際に、犬と猪に似た特異な形状によって、地名起源譚に付会されたものと考えられる。

 野本寛一氏の『石の民俗』(雄山閣)に、亀や蛇、牛などの形状石が、地名発生の要因になるとして、いくつも例を挙げておられるが、当地もその一例となるものだろう。

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2016年4月26日 撮影

境内配置図。


案内板。


加茂岩倉遺跡から出土した23号銅鐸。
下に描かれている四足獣は猪と見てまちがいないだろう。
弥生人が最も多く食べた動物は猪であるという。
古代人にとって、猪は主要な狩猟獣であった。
(島根県立古代出雲歴史博物館で撮影)

案内板。