県道37号から見た大芦浦・須々海海岸の「洗濯岩」。


大埼川辺神社の鳥居。扁額には「國主大明神」と記されている。


鳥居脇の巨石。大きさは、高さ5m、幅8m。


大埼川辺社社殿
 加賀の潜戸遊覧船乗り場「マリンプラザしまね」から南西に約1.8km。島根町西北端の大芦(おわし)浦を流れる森田川の左岸に、大埼川辺(おおさきかわべ)神社は鎮座している。

 神社の歴史は古く、今からおよそ1300年前に編まれた『出雲国風土記』島根郡の条に、大芦の神社として「大埼の社、大埼川辺の社」の2社の名前が記されている。「大埼」は「おおさき」ではなく「おおはし」と読まれる。「埼(さき)」は「端(はし)」の同義であり、時代とともに「おおはし」に変化し、「おおあし」「おあし」と訛っていき、現在の地名「大芦(おわし)」になったといわれている。
 また、『出雲国風土記』の海浜記事に「大埼の浜。広さ一里(さと)一百八十歩(あし)なり。西北に百姓(おおみたから)の家あり。」(一里一百八十歩は854.9m)の記載がある。ここにある「百姓の家」とは、当時の大芦浦の人々の暮らしぶりを考えると、農民の家ではなく、水産物を捕獲する海人たちの住居、または集落のことをさしていると思われる。

 大埼川辺神社の名の由来については、享保2年(1717)に編纂された松江藩の地誌『雲陽誌』のなかに、「此神伊弉册尊(いざなみのみこと)の産の穢(けがれ)を見て潮と水との堺に来て、神意を潔たまひ川邊に社を建て、よりて大埼川邊の社といふなり」の記述がある。これによると、イザナギノミコトは妻イザナミの出産のケガレを受け、最も清浄とされる海水と淡水が交わる汽水域で禊(みそぎ)をおこない、その川辺に社を建てた。ゆえに大椅川辺の社と呼ばれることになった。とされている。
 たしかに当社は、日本海に注ぐ森田川の河口から直線距離で約300mほど内陸に位置しており、このあたりが海水と淡水が交わる水域であると考えられる。汽水域は陰陽和合の浄化域として、古代から禊をおこなう重要な場所とされていた。

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 当社の巨石は、道路沿いに建てられた石鳥居の脇にあり、大きさは高さ5m、幅8m。石が背後の石垣にくいこんでいるので、石垣が造られる以前から、石はここにあったと思われる。
 鳥居の扁額には「國主大明神」と記されており、地元では「国主(くにし)さん」とも呼ばれ、浜、別所、垣ノ内、北垣、小具(おうぐ)の地元5地区の氏神とされている。主祭神は伊邪那岐命(いざなぎのみこと)で、須佐之男命(すさのをのみこと)・経津主命(ふつぬしのみこと)・武甕槌命(たけみかづちのみこと)が配神され、地域の人たちから、家内安全、五穀豊穣の「石神さん」として信仰されている。

 巨石についての詳しい記述や伝承はみつからないが、『石神さんを訪ねて〜出雲の巨石信仰』(山陰中央新報社)には、「社殿背後の丘陵地から地滑りで落ちてきた岩を、再発防止を願って住民が祭ったとの説もある」と記されている。神社の前を流れる森田川にも、大きな石が見られることから、この説が生じたと思われる。
 また、岩波書店の日本古典文学大系『風土記』に、大椅川邊社の注として「島根村北垣の国石神社」と記されている。はたして、国石の「石」は巨石を意味しているのか。そうであるなら『出雲国風土記』成立の天平5年(733)以前から、この場所に存在していたとも考えられるが、残念ながら確証といえるものはない。

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2016年4月25日 撮影

神社の前を流れる森田川。
川の中に馬の背の形をした「御乗馬石」
(通称:おんまさん)があるというが、
どの石なのか分からなかった。


案内板