『出雲国風土記』には4つのカンナビ山が登場する。電波塔のある山が出雲郡の神名火山といわれる仏経山。
この山の中腹に「伎比佐(きひさ)の大岩」がある。


伎比佐の大岩。高さ約8m、周囲約30m。その威容に圧倒される。




岩のある周囲は平坦地になっており、古代祭祀の場であったと考えられる。


仏経山の麓にある曽枳能夜(そきのや)神社。道路沿いに鳥居があり、石段を上った丘の上に境内がある。


曽枳能夜神社の境内。祭神は伎比佐加美高日子命、『出雲国風土記』にのみ登場する神である。
 『出雲国風土記』には、宍道湖を取り巻くように、神の隠れこもる山といわれる「神名備山」が4ヵ所記載されている。「カンナビ」の漢字表記はさまざまで、意宇郡の神名樋野は松江市山代町にある茶臼山(172m)に、秋鹿郡の神名火山は松江市西長江町と鹿島町古浦の境にある朝日山(342m)、楯縫郡の神名樋山は出雲市多久町の大船山(327m)、出雲郡の神名火山は出雲市斐川町の仏経山(366m)にそれぞれ比定されている。

 伎比佐(きひさ)の大岩は、この4つの神名備山の一つ仏経山の中腹にあり、山頂には曽枳能夜(そきのや)神社の奥宮跡地がある。現在、曽枳能夜神社は仏経山の北西麓に鎮座しているが、『出雲国風土記』出雲郡の条に「神名火山。(中略)曽支能夜社に坐す伎比佐加美高日子命の社、即ち此の山の嶺に在り。故、神名火山と云ふ。」とあり、これがかつて山頂にあった「曽支能夜社」にあたるといわれている。

 神の山である「神名火山」が、仏経山と名を変えたのは中世末頃からで、『斐川町史』(1972年・斐川町教育委員会)には、戦国時代中国地方に勢力をもっていた武将・尼子経久(あまごつねひさ、1541年没)が、この山に12の寺を建て、薬師十二体を安置し、仏経山と改名したと記されている。

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 伎比佐の大岩に至る登山口は、曽枳能夜神社の南500mにある本誓寺(斐川町神氷)の奥にあるという。
 このあたりと思うところで「伎比佐の石神→」の看板を見つけるが、矢印の方向にある道はトタン板に遮られている。はて、どちらに行けばよいのやら?
 道を訪ねたいが、外で作業をしている人の姿は見られない。民家を訪ねて案内を乞うと、トタン板はイノシシが畑に入るのを遮るためのもので、これを開けて入ればよいとのこと。大岩までは30〜40分かかるという。

 あいにくこの日は、今にも降り出しそうな空模様だった。雨カッパは用意しているが、滑ってどろんこになるのは避けたいところだ。降り出す前に急いで登ることにした。
 この山道は10数年前に、神名火山の石神伝承を確かめようとした地元有志によって整備されたものだという。熊笹に覆われた細い山道を抜けると山腹の平坦地に出た。そこに高さ約8m、周囲は約30mの巨大な大岩が、山の主であるかのようにどっしりと鎮座していた。山の斜面に露出している大岩と異なり、平地にポツんと置かれた巨大な岩塊の姿は、かなり異様な風景である。

 岩の前に「伎比佐神社跡 山の宮元宮」と記された小さな立て札がある。この伎比佐神社は、曽枳能夜神社の本殿背後にある境内社・伎比佐神社のこととされ、『出雲国風土記』にある「支比佐(きひさ)社」に比定されている。
 曾枳能夜神社の奥宮は仏経山の山頂のあるが、中腹の大岩付近に「支比佐社」の元宮があったと考えられているようだ。
 伎比佐神社の祭神は、伎比佐加美長依彦命(きひさかみながよりひこのみこと)、曾枳能夜神社の祭神、伎比佐加美高日子命(きひさかみたかひこのみこと)と名前が似ており兄弟神とも考えられる。また、『古事記』垂仁天皇の条に見られる「出雲国造の祖、伎比佐都美(きひさつみ)」とも関係する神と思われるが、詳細は不明である。

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 昭和59年(1984)8月、仏経山の北東、直線距離で約2.8km離れた神庭西谷(かんばさいだに)の荒神谷(こうじんだに)から、全国の銅剣出土総数を上回る358本もの銅剣が1カ所から出土し、さらに翌年には、銅剣埋納地から7〜8m離れた地点から、銅鐸6個と銅矛16本が発見された。
 古代史の通説を覆す世紀の大発見はこれだけで終わらなかった。11年後の平成8年(1996)10月、荒神谷から南東約3.4kmの地点にある加茂岩倉(雲南市)から、史上最多となる39個の銅鐸が見つかった。

 これらの相次ぐ発見により、あらためて注目されることになったのが、神名備山と青銅製祭器の関係である。
 出土した青銅祭器の多くは、当時の集落址から離れた谷問の斜面や山腹などに、なんらかの意図をもって土中に埋められた状態で発見されている。

 こうした謎めいた青銅製祭器の埋納について、佐原真氏は、日頃は土中に埋めておいて、祭りのたびに掘り出して使い、祭りが終わるとまた土中に埋められた。大量出土したのは、青銅祭器の祭りがなくなったために、そのまま放置されてしまったと考察している。
 佐原氏の土中保管説の他にも、廃棄説(銅鐸の祭りが終り、不要となって地中に埋めた)、隠匿説(銅鐸を地中に隠した)、地鎮説(地霊を鎮め、豊穣の祈りを大地に捧げる祭祀)、境界埋納説(ムラの境界に埋納し、邪悪なももの侵入を防ぐ)などさまざまな説が出されているが、いまだ定説には至っていない。

 荒神谷遺跡は、小さな谷間にあって三方の見通しはよくないが、唯一開けた一方向から、仏経山の山容を望むことができる。
 奥野正男氏は、「かんなび」という古語は、神霊の依り坐す場所であると同時に、「なばる」のもう一つの意味である「なくなる」「死ぬ」という意味も併せ持ち、神の墓所の意味もあったとし、青銅器を埋納するのは、人を葬るときに土中に埋めるのと同じ意味で、古い神の死に関わる儀礼がそこでおこなわれたのではないかと記している(『古代人は太陽に何を祈ったのか』大和書房)。青銅神と神名備山を結びつける奥野氏の考察は興味深い。

 また、不自由な体で、全国の銅鐸出土地250カ所を調査された井上香都羅氏は、銅鐸は、神山が最も美しく見える場所に埋められており、農耕とあまり関わりのない山丘の斜面などに埋められている。銅鐸は農耕祭祀、あるいは儀礼に使われたのではなく、神山信仰=祖霊信仰に使われたものだと考察されている(『銅鐸祖霊祭器説』彩流社)。
 すべての銅鐸埋納地が、神名備山周辺にあるとはいえないが、銅鐸祭祀を農耕儀礼ではなく、祖霊神を祀る祭祀の場であったとする見方には、基本的に共感を覚える。

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 最後に、今年上梓された平野芳英氏(荒神谷博物館副館長)の『古代出雲を歩く』(岩波新書、2016年7月)には、大岩の一帯が、斎場であった可能性が十分に考えられることから、大岩を中心に地形測量をおこなう予定である。と記されている。今後の解明を期待したい。

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2016年4月27日 撮影

仏経山の登山道入り口。トタン板を開けてなかに入る。





曾枳能夜神社本殿の背後にある境内社の伎比佐神社。
祭神は伎比佐加美長依彦命。
かつては山中の大岩付近に
「支比佐社」があったと考えられている。


曾枳能夜神社境内にある石神。
案内には「神魂伊能知奴志之命
(かみむすびいのちぬしのみこと)
 氏神 伎比佐加美高比古之命
(きひさかみたかひこのみこと)の
御祖神にして延命長寿の神なり
 出雲大社遥拝の岩盤(いわくら)と伝う」とある。








神庭荒神谷遺跡。
仏経山から延びる山間の小さな谷の斜面から発見された。


曾枳能夜神社 案内板。