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住宅街の外れにあり、神社の背後にはのどかな田園地帯が広がっている。 正面の社殿は立虫神社。右側に万九千神社の幣殿がある。
新しく建て替えられた万九千神社。幣殿裏の玉垣の中に新しい磐座が立てられている。
幣殿裏にそびえる高さ3mの磐座。祭神に櫛御気奴命(くしみけぬのみこと)、大穴牟遅命(おおなむちのみこと)、 少彦名命(すくなひこなのみこと)、八百萬神( やおよろずのかみ)の4神が祀られている。
二重に囲まれた玉垣の中、磐座と幣殿の間に榊(さかき)が植えられている。
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国道9号線(山陰道)の併川(あいかわ)交差点から北に約400m。西100m先には、天井川として知られる斐伊川(ひいかわ)の高い土手が見える。
現在、万九千(まんくせん)神社は、立虫(たちむし)神社の境内社となっているが、鳥居の脇には2つの社号標が仲良く並立して建てられている。外見からでは、どちらが本社でどちらが摂社なのか、まったく見分けはつかない。
というのも、元々ここは万九千神社の社地であり、江戸時代前期の寛文10年(1670)頃、斐伊川の中洲(現、神立橋の大津町より付近)に鎮座していた立虫神社が、大洪水に伴う流路変更により、当地に遷座してきたという。この段階では、立虫神社が摂社であったが、明治の神仏分離令(廃仏毀釈)の断行により、本殿のない万九千神社は、社格が下がると考えられたのか、明治維新以降、万九千神社は無格社となり、立虫神社は村社に列せられた。ここで本社と摂社の関係が入れ替わったといわれている。
両神社の起源は不詳だが、万九千神社は『出雲国風土記』の「神代社(かむしろのやしろ)」、『延喜式』の「神代神社」であり、これが後の「万九千社(まくせのやしろ)」になったとされている。(神代神社については、斐川町神庭の「神代神社」も論社に比定されている。)
一方の立虫神社は、『出雲国風土記』の「立虫社(たちむしのやしろ)」、『延喜式』の「立虫神社」に比定されている。
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旧暦の10月、出雲でいう神在(有)月(かみありつき)には、万九千神社においても神在祭(かみありさい)にまつわる神事が行われている。
神在祭は、全国の神々が出雲大社に集合し、これから1年間の「幽事(かくりごと)」を相談するという伝承より生まれたもので、人生上の諸般の出来事から男女の縁結びなどを「神議り(かむはかり)」にかけて決められるといわれている。
まずは、国譲り神話の舞台となった「稲佐の浜」で、神々をお迎えする「神迎(かみむかえ)神事」が行われる。この後、出雲大社ならびに摂社上宮(かみのみや)において、7日間にわたる「神在祭」が執り行われる。これが終わると、神々は出雲大社をお発ちになり、それぞれの国に還られるのだが、その際に万九千神社に立ち寄られ「神等去出祭(からさでさい)」と呼ばれる神送りの神事が行われる。
旧暦10月26日の神等去出祭では、万九千神社の宮司が幣殿(へいでん)の戸を、梅の小枝でたたきながら「お立ち」と3度唱えて神々に出発の時が近いことをお知らせする。この後、神々は直会(なおらい)を開き、明年の再会を期して、各地の神社へと帰途につかれるという。
「神等去出祭」の期間は「お忌み」と称し、地元では静粛にし、外出もせずに静かに神々を見送る風習が残っているといわれる。
万九千神社の社殿は幣殿のみで、本殿はなく、幣殿背後の神籬磐境(ひもろぎいわさか)をご神体としてお祀りしている。
幣殿とは、祭儀を行い、神にお供え物をささげる社殿で、一般的には比較的大きな神社にあり、本殿と拝殿の間に設けられることが多い。当社は、大きな神社とはいえないが、磐座をご神体としていることから、本殿は必要とされなかったのだろう。典型的な古代の磐座信仰の流れを汲む様式となっている。
この幣殿が、平成26年(2014)10月、出雲大社の大遷宮に合わせて、明治11年(1878)以来、136年ぶりに建て替えられた。 新しくなった幣殿は約80平方mの平屋建てで、殿内鳥居や神具神器も新調されたという。
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社殿が新しくなるのは珍しいことではないが、なんと当社では、ご神体の磐座までもが一新されたという。このような事例は、未だかつて聞いたことがない。
『石神さんを訪ねて〜出雲の巨石信仰』(山陰中央新報社)によると、当社では、古くから斐伊川の石と神籬(ひもろぎ)をご神体として祀ってきたという。江戸時代前期の記録に「磐境と神籬を祭る」と残されているが、幕末の境内地図のなかに磐座は描かれていない。いつの時代かは不明だが、磐座は斐伊川の氾濫で流され、砂に埋れてしまったと考えられた。
失われた磐座の代わりとして、昭和51年(1976)に先々代の宮司が、御影石を探してきてそこに祭神の名を刻み、これをご神体としてきたが、昨年の正遷宮に合わせて古来の姿に戻そうと、宮司や地元住民が、斐伊川の上流で新たに巨石を見つけ奉納し、幣殿とともに磐座も一新されたという。
幣殿背後の二重に囲まれた玉垣のなかに、高さ約3mの石が、モルタル状のもので底部をしっかりと固定され、立てられている。石に加工は施されていないが、いかにも設置されたという造作は不自然で、文字の刻まれていない石碑が建てられているように見える。
野本寛一氏は『神と自然の景観論』(講談社学術文庫)の中で、「磐座は本来、人為的な力では動かすことのできない岩であり、石であった。石のもつ不動性、不変性が人々を惹きつけてきたのである。」と記している。
万九千神社の立石を、素直に「磐座」と認めることはできないが、古代の磐座祭祀の姿を現代に残しておきたいという当社の思いは理解できる。出雲人の磐座信仰に対する不変性を見せられたような思いがする。
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2016年4月27日 撮影
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立虫神社拝殿。背後に本殿がある。
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案内板。
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