赤猪岩神社の側(南)にある先達池からみた手間山(別名:要害山)の山容。


赤猪岩神社の二の鳥居。


小暗い林の中に鎮座する拝殿と本殿。


本殿左の石垣上に玉垣で囲われた「アカイシサン」と呼ばれる平石が鎮座している。
この下に、大国主を焼き殺した大石が埋められているという。


玉垣の中には2m×3mほどの平石が2つ置かれており、石棺蓋の残欠のようにも見える。

 出雲大社の祭神であり、国つ神(地上世界の神)の頭領的存在である大国主命(おおくにぬしのみこと)の神話は、『古事記』の神代篇に記された「稲羽(因幡)の白兎」の物語からはじまる。(大国主には多くの別称があり、『古事記』では大穴牟遅神(おおなむじのかみ)の名で登場するが、ここでは大国主で統一する。)

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 鰐(わに)に皮を剥がされ、さらに大国主の兄弟である八十神(やそがみ)にウソの治療法を教えられ痛みに苦しんでいた白兎は、大国主に正しい治療法を教えられ、元通りの体に回復する。兎は大国主に感謝して、因幡国(現在の鳥取県東部)の八上姫(やかみひめ)は、八十神の求婚をこばみ、大国主との結婚を望むでしょうと予言する。実際その通りとなり、これに怒った八十神たちは大国主の殺害を計画する。

 ここから、赤猪岩(あかいいわ)神社の伝承である「伯伎國之手間山本(伯耆国(ほうきのくに)の手間の山本)」の件(くだり)、境内の石標に刻まれている「大國主大神御遭難地」にまつわる物語となる。

 因幡の八上姫を大国主に奪われた八十神は、出雲への帰り道、伯伎国(現在の鳥取県中西部)の手間山(別名:要害山、岩坪山、天万山 329m)の麓で、大国主に向かってこう言った。
 「この山に赤い猪(いのしし)がいる。我々が猪を追いやるので、お前は下でその猪を待ち伏せて捕らえよ。捕らえそこなったら、お前を殺すぞ」
 八十神は猪に似せた、真っ赤に焼いた石を山の上から転げ落とす。何も知らずに猪を待ち構えていた大国主は、その石を受け止めて焼き殺されてしまう。
 これを知った大国主の母・刺国若比命(さしくにわかひめ)は嘆き悲しみ、天に昇って神産巣日之命(かみむすびのみこと)に助けを請う。神産巣日之命は、娘の蚶貝比売(きさがいひめ=赤貝)と蛤貝比売(うむぎひめ=はまぐり)を遣わし治療をさせる。蚶貝比売は赤貝の殻を削って粉にし、蛤貝比売はそれをはまぐりの汁で練り合わせた霊薬「母(おも)の乳汁」をつくる。その霊薬を大国主の体に塗ったところ、火傷はみるみるうちに治り、大国主は元の麗しい姿となって生き返ることができた。

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 大国主再生神話の舞台とされる赤猪岩神社は、島根県との県境(直線距離で約3km)に近い「伯耆国の手間の山本」にあって、神社のかたわら(南)にある先達池の後方に、手間山の秀麗な山容を見ることができる。赤猪岩神社の背後にある山は、手間山の北に連なる標高130mの膳棚(ぜんだな)山で、神社は膳棚山の東麓に東を向いて鎮座している。
 本殿左に並ぶ玉垣のなかには、「アカイシサン」と呼ばれる大きさ2m×3mほどの平石があり、その石の下には大国主を焼き殺した大石が、二度と掘り返されることがないよう土中深くに埋められているという。また、当社から徒歩30分の所にある清水川集落には、大国主を蘇生させた霊薬を練るために水を汲んだと伝えられる泉「清水井」がある。

 このように『古事記』にもとづく神話の痕跡は整っているように見えるが、『日本の神々 神社と聖地7』(白水社)によると、赤猪岩神社を比定地と想定するにはいささか問題があるという。

 問題点として挙げられているのは、神社およびアカイシサンの由緒についてだが、安政5年(1858)の『伯耆誌』に「この石(赤猪岩)についてはとくに祭祀が行われていたわけではなく、あるとき祟りをなしたため、それを畏れて荒神として祀り始められたものと思われる」とあり、このことから、安政のころには大国主の神跡という認識はなかったらしく、社祠らしきものもなかったようであるという。
 また、当社の名は『出雲国風土記』『延喜式神名帳』ともに記載がなく、資料等での初見は、明治時代に書かれた『神社明細帳』で、「焼石の神跡たるをもってその由緒とし、明治元年(1868)の鳥取藩の神社改正の際に荒神の名は廃止されたが同4年の願い出によって存置された」とある。
 『日本の神々』では、おそらく、明治元年に大国主の神跡であることを主張して、赤猪岩の名を冠し、神社としての存続を許可されたものと推測している。
 さらに、当社が鎮座する膳棚山には、古墳群の存在が知られており、これまでに4基の古墳(円墳)が確認されている。こうした調査から、当社のアカイシサンも、古墳の石室または石棺の残欠ではないかとの見方もあるという。

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 これだけ問題点を列挙されると、赤猪岩神社を大国主ご遭難の伝承地とすることも怪しくなってくる。
 『鳥取県神社誌』(昭和10年)には、赤猪岩神社の創立年代は不詳、明治4年(1871)に無格社に列せられ、大正6年(1917)に村の氏神であった久清神社(もと八所大明神また八将大明神、祭神は素戔嗚命)と、大正11年には手間山山頂にあった赤猪神社(もと赤磐権現、祭神は大国主命・刺國若比賣命)と合併して、現在の赤猪岩神社となったとある。

 上記にある手間山の山頂にあった赤猪神社(赤磐権現)が、本来の伝承地であったとも考えられるが、これについても詳細は不明。仮に、ここを伝承地とすると、「アカイシサン」はどこにあるのか? 
 今回見ることはできなかったが、赤猪岩と呼ばれる石は、当社境内のほかにもう一つあるという。当社と清水井を結ぶ古道の途中に案内板があり、そこには「本物と言われている清水川の赤猪岩」と記されている。「本物」の念押しには失笑するが、いずれの資料も現存しておらず、真偽のほどは明らかではない。

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2016年4月25日 撮影

一の鳥居。背後の山は手間山の北に連なる膳棚山。


「神代遺跡 大國主大神御遭難地」と記された石標。


再生・復興、昇運を祈願する神社として知られ、
絵馬には「再活必定」「再盛勝運」の文字が見える。




案内板