巨石群の頂部にある石祠。現在立ち入り禁止で登ることはできない。
祠をのせた舟岩。
安産の神として、県内をはじめ北関東各地から多くの参拝者を集める産泰(さんたい)神社。この日も、赤ちゃんの無事な誕生と健やかな成長を願う「初宮詣り」のファミリーでにぎわっていた。こうしたハレの舞台から一歩踏み込んだ境内の背後に、突然「太古」を感じさせる「産泰明神山」と呼ばれる不思議な巨石群がある。
この巨石群は、約13万年前、赤城山の大規模崩壊で生じた岩屑なだれが集積し形成された「流れ山」であると考えられている。神社周辺には、火山性の泥流丘が点在し、微高地であるが「山」と呼ばれているところが多い。
赤城山は2万年前の小沼をつくった大規模噴火以後、目立った活動はないとされている。『吾妻鏡』のなかに「建長三年四月十九日(1251年5月11日)赤木嶽焼」と記されているが、この噴火に相当する堆積物は見つかっていない。山火事とする説が有力視されている。
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今日、赤城山信仰の中心は「沼神」におかれ、巨石信仰はすっかり忘れられた感がある。しかし、巨石信仰に関わる歴史の片鱗は、いまだに失われることなく各所にのこされている。
赤城山のふもと荒山の中腹には「櫃石(ひついし・県史跡)」と呼ばれる高さ2.5m、周囲12.2mの磐座(いわくら)があり、巨石の周囲から6世紀中頃のものと思われる手づくねの土器や、滑石で作られた玉や剣形の飾りなどが出土している。他にも、前橋市粕川町の雷電神社「七ツ石」、伊勢崎市下触町の「石山観音堂」など、縄文的要素をもった古代祭祀遺跡がのこされており、古墳時代に巨石信仰があったことを物語っている。
また、周辺には古墳も多く、南参道脇に隣接している全長46mの前方後円墳「大黒塚古墳」、道路を隔てた東側には全長67mの前方後円墳の「伊勢山古墳」。さらに、東1.5kmに3つの大型前方後円墳(国史跡)を有する大室古墳群があり、この地方に大きな力を持った豪族が存在し、6世紀には大和政権の力がおよんでいたことを示している。
神門。1833年に建てられた三間一戸の単層門で、
単層門としては群馬県内最大級の建造物。
拝殿。1812年に再建、入母屋造り、銅板葺き、
かつて「胎内くぐり」ができたというのは、このあたりだろうか。
産泰神社の創建は、社伝によれば履中(りちゅう)元年(今からおよそ1600年前の古墳時代)とされているが定かではない。
祭神は木花乃開耶命(コノハナノサクヤヒメ)で、瓊々杵尊(ニニギノミコト) から不倫を疑われ、身の潔白を証明するために産屋に火を放ち、その火中で3柱の子供を無事に出産をしたという。また、山の神の総元締である大山祇神(オオヤマツミノカミ)の娘でもあり、国内最高峰の富士山を筆頭に、噴火を鎮める願いを込めて火山系の神社に多く祀られている女神である。
安産を望む場合は、人が軽く抜ける(生まれる)ようにと底のぬけた柄杓(ひしゃく)を奉納し、子宝を望む場合は、底がある柄杓を奉納する慣わしとなったのは江戸時代以降のこと。また、箒神(ほうきがみ)に関わる伝承も多く、箒はケガレを掃き清めるものであり、この類推から胎児を外に掃き出す呪力をもつと考えられていた。
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江戸時代後期、前橋藩主酒井雅楽頭(うたのかみ)は奥方の安産を祈願し、社殿を造営するなど尊崇が篤く、前橋城の鎮護を願って社殿の向きを城方向に建てられたという。
産泰神社の本殿・幣殿・拝殿・神門及び境内地は県指定重要文化財に、毎年4月18日の例祭に奉納される太々神楽は市指定無形文化財に、社宝である八稜鏡(平安時代)は市指定重要文化財にそれぞれ指定されている。
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2009年4月29日 撮影
本殿。1763年に再建、一間社、入母屋造り、銅板葺き、
建物全体が極彩色で彩られている。
本殿北面の細工。細部に精巧な彫刻が施されている。
【案内板】