大洗磯前神社「神磯の鳥居」。冬至の太陽が昇ってくる方向を向いて立てられている。
毎年元旦には大洗磯前神社の宮司以下神職は神磯に降り立ち、太平洋に昇る初日の出を奉拝する


大洗磯前神社の二の鳥居。階段を登って正面が社殿。
階段の反対、車道向かいの小道を入ると「神磯の鳥居」が立つ大洗海岸に出る


大洗磯前神社  拝殿
 大洗といえば、松本清張の短編『巨人の磯』が想い浮かぶ。『常陸国風土記』にある巨人伝説ダイダラボウを題材にした、清張ならではのミステリーだ。小説では太平洋の荒波が押し寄せる大洗の海岸に、巨人と見紛うほどに膨張した死体が流れ着く……。清張ファンとしては小説の舞台を歩くことも楽しみの一つ。地名由来にも、巨人ダイダラボウが大洗の海水で足を洗ったことから付いたという説もある。

 大洗磯前(おおあらいいそさき)神社と酒列磯前(さかつらいそさき)神社は、茨城県を南東に流れる那珂川を間にはさみ、南北に約7km隔てた鹿島灘を臨む丘の上に鎮座している。大洗磯前神社には大己貴命(おおなむちのみこと)、酒列磯前神社には少彦名命(すくなひこなのみこと)が主祭神として祀られている。日本神話では大己貴と少彦名の2神が併せて登場することから、両社もセットとして扱われることが多い。

 両社ともに「延喜式」神名帳にその名が見られるが、社名には神仏習合の影響から「薬師菩薩」の号が加わり「大洗磯前薬師菩薩明神社」「酒列礒前薬師菩薩神社」と表記されている。これでは薬師菩薩が祭神のように思えるが、ここでの薬師は、阿弥陀如来の〈西方〉極楽浄土に対する薬師如来の〈東方〉浄瑠璃界を表すものだろう。両社の祭神・大己貴と少彦名が、東方から大洗の海岸に漂着したという伝承から、薬師菩薩と同一視されたものと思われる。

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 平安時代初期の国史の一つ、『日本文徳天皇実録』斉衡3年(856)12月29日の条に、両社の創建に関わる以下のような奇談が載せられている。

 陸奥国からの知らせによると、鹿島郡大洗磯前の海岸に、神が新たに降ったという。
 海水を煮て塩をつくる者が、夜半に海を望むと、天のあたりが光り輝いていた。翌朝になって見ると、水ぎわに高さ1尺ばかりの2つの怪しい石があった。
 その翌日には、石の左右に20余りの小石が寄り添っていた。石は不思議な彩色をして、僧侶の形に似ていたが、耳と目がなかった。そのとき、神が人に憑いて「我はこれ大奈母知(おほなもち)少比古奈命(すくなひこなのみこと)なり。昔、この国を造り終えて、東海へ去ったが、今また、東国の民の難儀を済(すく)うため、再びこの地に帰り来たり」と告げたという。

 翌年の天安元年(857)8月7日の条には、両社ともに官社となって創建され、大洗磯前に大奈母知を、酒列磯前に少比古奈命を祭神として祀ったと伝えられている。

 大洗の海岸で見つかった怪石について、吉田東伍の『大日本地名辞書・坂東』には、「両怪石と廿余小石を、両地に分祭せしと見えたり」と記されている。両地とは大洗・酒列の両社のことだろう。しかしながら、酒列磯前神社でもらった由緒書にも、境内にあるりっぱな石碑文にも、なぜかしら怪石に関する記載はまったく見られない。
 その代わりではないだろうが、石碑文には神聖な石として「東南方磯づたいに展開せる白亜紀の岩石群は古より神聖視され清浄石と呼ばれておれり」と、「清浄石(しょうじょういし)」の名があげられている。


茅葺き屋根の大洗磯前神社本殿(県指定文化財)


神社境内にある「さざれ石」。
鳥居の立つ神磯の岩礁と同じ種類の石と思われる。
海岸から運ばれて、ここに祀られたものだろうか


護岸から約50mほど突き出た岩礁の先端にある「清浄石」


写真中央の上面が平らになっている石が「清浄石」。石の上面に円座のような突起も見える(望遠レンズ使用)

 清浄石は、酒列磯前神社から1キロ余南の平磯の海岸にある。約3.6m四方の立方形の形状から「護摩壇石」ともいわれ、ここで弘法大師が21日間にわたる護摩祈祷を行ったという伝承をもつ。
 今回は干潮時をねらって、岩礁をつたい海に突き出た清浄石に上がってみようと思ったが、予想以上に波が荒い。私の運動能力では、滑って転び、寒中水泳になりかねない。チャレンジは夏にでも改めて行うことにした。

 清浄石のある平磯から磯崎に至る海岸は、約6500万年前の中生代白亜紀の地層が露出したもので、アンモナイトやヒタチナカリュウ(翼竜)、モササウルスなどの化石が発見され、県の天然記念物に指定されている。「酒列(さかつら)」の語義も、この海岸で見られるのこぎり歯状の岩が列なる特異な様相から名づけられたという。

 こうした特異な景観から、古来より神々の漂着する「神磯」として神聖視されていたのだろう。酒列磯前神社、東海村の豊受皇大神宮や村松大神宮・虚空蔵堂、那珂市の静神社など、那珂地方周辺の神仏は、すべて清浄石に漂着したという伝承をもっている。寛文7年(1667)より昭和4年(1929)の約260年間にわたって行われた「ヤンサマチ」祭りでは、那珂地方48ヵ村から御輿を運び、護摩壇石上に安置し、祝詞を挙げたという。

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 記紀によると、少彦名(すくなひこな)は波の彼方より、ガガイモの実を2つに割った小さな舟に乗って来訪し、大己貴(おおなむち)との国造り終え、その後「常世の国」に渡り去ったという。常世の国とは、沖縄のニライカナイと同様に、はるか海の彼方にある理想郷であるといわれるが、はたして何処にあるのだろう……。

 『常陸国風土記』に、常陸国は海山の物産に恵まれた豊かな国で「まさに常世の国のようだ」と誉め称えている。「常陸(ヒタチ)」の地名も、「日が立ち上る」方角、すなわち東方を意味し、大洗の岩礁に立つ鳥居は、冬至の太陽が昇ってくる方向を向いて立てられている。
 『文徳実録』にある怪石の出現も、朝廷へ報告された日付が斉衡3年の12月29日であるから、見つかったのはそれより少し前のことと思われ、冬至の時節とほぼ一致する。
 古来より冬至は新年の起点であり、一年の終わり(死)と始まり(再生)を意味している。『文徳実録』の「常世」=「常陸」のイメージの重なりから、ここ「神磯」の岩礁が、神々が依りつく神聖な磐座であり、「常世の国」への出入り口と考えられていたのではないだろうか。

 酒列磯前神社の由緒に、怪石に関する記載が見られないことを訝しく思っていたが、この地の信仰が、怪石を祀る石神信仰にあるのではなく、岩礁に神が依りつく磐座信仰がベースになっていると考えれば、酒列磯前神社に怪石の記載がないこともうなずける。
 『大日本地名辞書』の「両地に分祭せしと見えたり」は、吉田東伍の勝手な憶測ではなかったかと思えてきた。

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2013年12月22日撮影


酒列磯前神社の大鳥居。本殿に至る300mの参道には、
ヤブツバキ・タブノキ・スダジイ等の広葉樹が連なっている
(県指定天然記念物)


酒列磯前神社の境内にある
「水戸斉昭(なりあき)公お腰かけの石」


酒列磯前神社 社殿




酒列磯前神社【境内石碑文】