太刀割石。縦直径7m×横直径6m×高さ2.5m。面の周りは20mある。岩質は細粒の黒雲母花崗岩。
右の立っている石が元の位置で、片方が割れて手前に転がったものと思われる。
太刀割石の立っている石の裏面。巨大な丸石に見える。
甲石(かぶといし)。高さ3.5m、外周12m。正面に石をくりぬいた祠があり、中に薬師如来が祀られている。
もとは「堅破和光石」と呼ばれたが、水戸光圀により「甲石」に改名された。手前に横たわっているのは「舟石」。
茨城県日立市の最北部、標高658mの竪破山(たつわれさん)。登山口は標高450m付近にあって、案内図には「頂上まで1.7km 徒歩30〜40分」と記されている。高低差208mでは、登山というにはおこがましい。野山の散策気分で登っていける。
山頂には「茨城」の地名の由来となった黒坂命(くろさかのみこと)を祀った黒前(くろさき)神社がある。『常陸国風土記』(茨城郡の条)に、朝廷に帰順しない国巣(土着豪族)に対して、大臣の一族である黒坂命が、原野に自生する野ばら(茨刺・うばら)で、賊の住居である穴を塞ぎ滅ぼしたという伝承にちなみ、茨城の縣名が起こったという。
往昔には角枯山(つのかれやま)と呼ばれていたが、 崇神天皇の時代、黒坂命が蝦夷征伐の帰路この山で客死したため、山上に黒前神社をもうけたことから黒前山と呼ばれるようになった。
竪破と銘打ったのは、巨石信仰に並々ならぬ関心を寄せていた水戸光圀翁で、元禄6年(1693)、この山に登り、まっぷたつに割れた奇岩をみて「最も奇なり」と感銘し「太刀割石(たちわりいし)」と名づけた。山の名も「たちわり」が「たつわれ」に転化したものという。
大岩を割ったといわれる怪力の持ち主は、この手の伝承でお馴染みの八幡太郎源義家である。永保3年(1083)、奥州遠征の途上、黒前神社に参拝し一夜戦勝を祈ったところ、夢に現れた神が一振りの大太刀を授けた。目覚めた義家がこの刀に振り下ろすと大岩はまっぷたつに割れ、石の片割れは地響きと共に転倒し、開口面は天を仰いだという。
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太刀割石の前に置かれた案内板に、「……以前は「磐座(いわくら)」と言って、神の宿る石として、石の回りにしめ縄を張りめぐらし、みだりに石の上に上がることはできませんでした。」とあるのだが。はたして、この石のどこに注連縄がまかれていたのだろう。立っている後方の石なら巻きやすいが、転倒した石では巻いた姿を想像するのはむつかしい。
というのも、奇岩としての迫力は十分に認められるが、巨石信仰の磐座であったという点には、今ひとつ、うなづけないものがあるのだ。
宗教学者・久保田展弘氏のいわれるように、日本の巨石信仰に「巨岩そのものに人間の手が加わることはまずない」(日本の聖地)ことであり、自然のままの形で残されていることが磐座の必須条件である。もちろん、八幡太郎の太刀割り伝承を信じて、人為に割られた石と考えているのではない。しかし、こうした伝承が生まれた所以として、あまりにみごとな割れっぷりに、神秘な力とともに第二次的な人為性も加わったと目されたためではないだろうか。
太刀割石3枚目の写真は、立っている石の後方から撮影したものである。石が割れる以前の、巨大な丸石のごとくあった時代の姿を思い描くと、磐座としての神々しさという点では、やはり割れる以前の姿に軍配があるように思えるのだが、いかがだろう。
甲石の裏側。木の根が節理面に沿って入り込んでいる。
太刀割石もこのような形が進行し割れたのだろうか。
舟石。長さ4m、幅1.5m。
甲岩の表面が剥落し落下したものと思われる。
明神鳥居の奥が仁王門(随神門)。
門前には右大臣・左大臣の木像が配置されている。
黒前神社。大同元年(806)、 坂上田村麻呂が東征の折、
再興したといわれ古くから山岳信仰の場であった。
不動石。横8m×縦3m×高さ1.5m。石の上に不動明王の石像が祀られ、その足元を清水が流れ落ちている。
神楽石。「堅破山絵図」(元禄4年)では「まいまい石」といわれていた。
祭りの際ここで神輿を渡し、一休みのためにお神楽を奏し、神楽舞を行ったとされる。
竪破山の見所は、太刀割石だけではない。他にも、烏帽子石、畳石、甲(かぶと)石、舟石、胎内石、神楽石と呼ばれる石が点在し、これに不動滝(奈々久良滝)、剣滝、龍馬滝を加えた「七奇石三瀑」の名勝として「茨城百景」のひとつとなっている。
駐車場のある二の鳥居から登りはじめて10分余、七奇石の番外、不動岩があらわれる。つづいて烏帽子石、畳石。小さな炭焼き窯の横を抜けると左に弁天池があり、この先で道が分かれている。左に行くと太刀割石、右の鳥居をくぐり仁王門のある石段を上ると山頂に至る稜線に出る。
稜線上にある釈迦堂の広い境内には、土に半分埋まったかたちの舟石、その後ろに甲石があって、釈迦堂横の急な石段を上ると黒前神社の本殿に出る。その先に山頂の展望台があり、急な斜面を降りたところに胎内石がある(下記ルートマップを参照)。
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ざっと登山コースをたどってみたが、山頂から駐車場までの登山道に沿った南斜面は、崩壊による土石流地形であるといわれている。
畳石、烏帽子石は崩落崖より転落・破砕した巨大礫であり、不動石は土石流で運ばれてきたもの。稜線上にある太刀割石、甲石、神楽石は、花崗岩が風化されて残った球状のコアストーンと思われる。
太刀割石は、植物の根が石の節理や割れ目に侵入して割れ、片方が転倒したものだろう。甲石を見ると、岩体上に樹木が根付いており、裏側では木の根が岩に入り込んでいる。太刀割石もこのような形が進行し、割れたものと見ることができる。甲石の前で横たわる舟石は、甲石の一部が破断したもの。神楽石は元は単一の石であったものが、木の根開口が進み5、6片の板状破片に分離したものと思われる。
山頂は、浸食から取り残された残丘と呼ばれる丘陵地となっており、黒前神社本殿の裏に大きな花崗岩塊が露出している。
角枯山、黒前山、竪破山の名前の変遷のなかで、山の崩落、そして太刀割石が割れたのはいつの時代だったのだろう。奈良時代初期に編纂された『常陸国風土記』に太刀割石の記載がないのが残念である。
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2009年12月13日 撮影
畳石。横8m×厚さ2.46m。八幡太郎義家が腰を下ろして
休んだとという伝承から、腰掛け畳石とも呼ばれた。
烏帽子石。横7m×厚さ1.5m、上部斜面の縦3m。
「えぼし」に似ていることからこの名がついた。
胎内石。黒坂命が休ませたといわれる岩窟。
【案内板・ルートマップ】
【案内板】