住宅街の一角にある剥き出しになった蛇塚古墳の石室。


横穴式石室は古墳時代後期の6世紀になって全国各地にひろがった。羨道の長さは11m。内部は鉄骨で補強されている。


側壁石はチャートと呼ばれる珪質の堆積岩の一種。もっとも大きな石は30トンくらいあると思われる。


正面奥壁石の大きさは横4m×高さ3m×幅2.3m。上部の石は失われており、その先に向かいの家の窓が見える。


蛇塚古墳・石室図。大小30数個の石を積み重ね構築されている。。
 嵐電「帷子ノ辻(かたびらのつじ)」駅から南に約300m。京都・太秦(うずまさ)の新興住宅地に、忽然として姿をあらわす巨石の山。周囲を家々に取り囲まれ、フェンスの中に封じ込められた「蛇塚(へびづか)古墳」は、さながら古代栄華の夢の跡といったところ。なんとも時代錯誤なロケーションである。

 昭和のはじめ、この付近一帯は、今とまったくちがった景色のなかにあったようだ。
 梅原末治「山城太秦巨石古墳」(『近畿地方古墳墓の調査』3・日本古文化研究所報告、1938)によると、大正9年(1920)頃は、墳丘基底部は畑地になっていたが前方後円の墳形は残されており、墳上は竹やぶに覆われ、石室は上辺の石材が失われ内部に埋もれていた。また、塚の周囲は一段低くなって、空湟(からぼり)をめぐらしたような形跡が認められたという。
 昭和11年(1936)に、土地所有者によって石室が取り除かれようとしていることが、京都帝国大学考古学教室に伝えられた。よって同教室員が実査したところ、封土はほとんど除去されていたが、全貌はあらわした石室は、当初の予想に反して、まれに見る巨大なものであった。しかも天井石を除いて、石室はその形を保っており、大和の石舞台古墳に比肩し得ることが確かめられた。
 その後、石室の破壊はくい止められるが、太秦は「日本のハリウッド」と呼ばれ、映画制作の街として急速に発展する。昭和40年には石室のみを残し、周辺部はすべて宅地となり、次々と家が建ちはじめた。
 Googleマップで、古墳周辺を空から眺めてみると、前方後円墳の形に沿うように住宅が建ち並んでいることがわかる。

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 蛇塚古墳の全長は約75m、前方部幅約30m、後円部径約45mと推定される。古墳の大きさからみれば中位の首長墓クラスである。しかし横穴式石室は、奈良県橿原市の見瀬丸山古墳や奈良県明日香村の石舞台古墳といった国内最大級の規模に匹敵する。とくに棺を安置する玄室の床面積(25.8u)は、三重県伊勢市の高倉山古墳、岡山県総社市のこうもり塚古墳、石舞台古墳に次いで全国第4位の規模を誇るという。(玄室床面積では、2008年の調査により明日香村の真弓鑵子(まゆみかんす)塚古墳が約28uであることがわかった。これにより上記の順位も変わってくる。)

 横穴式石室は後円部の東南に向いて開口しており、縦4m、横5m、高さ2.5mもある巨石など大小30数個の石を積み重ね構築されている。天井石の大半と奥壁の一部を欠くが、全長約17.8m、玄室長6.8m、幅3.8m、高さ5.2m、羨道(せんどう、玄室に通じる道)長約11m、幅2.6m、高さ3.4mを測る。側壁は原則的には2段積みであるが、羨道最奥の壁石は1石で、長さ2.5m、高さ3.3mの規模をもつとある。(『日本古墳大辞典』東京堂出版を参考)

 石室の側壁石は、学名はチャートと呼ばれる珪質の堆積岩の一種で、桂川の上流部・保津川流域から運んだと推定されている。「蛇塚」の名称は、かつて石室内に蛇が多く棲んでいたことから名付けられたという。

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 太秦には、蛇塚古墳のほかにも5世紀後半から7世紀初頭の築造とされる古墳が数多く点在している。これらは嵯峨野古墳群とよばれ、主な前方後円墳を築造年代順に挙げれば、段ノ山古墳、清水山古墳(全長約60m)、天塚古墳(全長約71m)、片平大塚古墳(仲野親王陵古墳、全長約63m)となる。このうち段ノ山古墳と清水山古墳は、昭和40年代の都市開発によって破壊され消滅した。

 嵯峨野古墳群の被葬者は、5世紀前半ごろに葛野(かどの)の地に定住した渡来系氏族・秦氏の有力者の墓と見るのが定説となっている。
 嵯峨野は、桂川の左岸にあって段丘や緩傾斜の扇状地の上にあり、古代から水がかりの悪い高燥地で、水田農業に適さない地域だった。したがって長く開発から取り残されて豪族も成立せず、古墳も建設されなかった。その地域環境を一変させたのが渡来系氏族の秦氏による当時、最新の土木・灌漑技術である。
 秦氏一族は葛野川(現在の桂川)に大堰を築き、嵯峨野地域を京都盆地随一の肥沃な穀倉地帯に変えていった。この古代史上最大規模の河川事業の推進が秦氏発展の基礎となり、後に長岡京、平安京に造営に深く関わるほどの強大な勢力を持つことができたといわれている。葛野大堰の築造時期は不明だが、秦氏の首長墓である嵯峨野の古墳建設時期から考えて、5世紀後半頃と思われる。(『日本古代史地名事典』雄山閣を参考)
 葛野大堰の築造時期については異説もある。和田萃氏は「渡来人と日本文化」(『岩波講座日本通史 第3巻』)のなかで「嵯峨野の古墳群の状況や、古市大溝(6世紀中葉以降に掘削された古市古墳群内を通る巨大な水路)および飛鳥川の事例からみて、6世紀後半とみておきたい。葛野大堰は秦氏により築造されたものであり、推古朝から皇極朝にかけて秦河勝(はたのかわかつ)が活躍する経済的基盤となった。」としている。
 この説をとるなら、葛野大堰は河勝によって築造されたという見方も可能となり、河勝の名が、文字通りの「川に勝つ」であるのもうなずける。

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 秦河勝の生没年は不詳だが、いずれにせよ6世紀後半から7世紀半ばにかけて活動したと思われる。推古天皇の摂政となった聖徳太子の側近として活躍し、朝廷の財政にも関わっていたといわれている。『日本書紀』には、推古11年(603)、聖徳太子から弥勒菩薩半跏思惟像(国宝第1号)を賜り、太秦に蜂岡寺(現広隆寺)を建立しそれを安置したと伝えている。
 蛇塚古墳は嵯峨野古墳群のなかでも最後期となる7世紀初頭の築造といわれるから、広隆寺造営と葛野大堰の築造(和田説をとれば)の3つは、ほぼ同時期に進行していた可能性も高い。
 また、7世紀初頭といえば、蘇我馬子の墓ともいわれる石舞台古墳も同時期の築造である。墳形は明確ではないが、石室の大きさ、外観はよく似ている。蘇我氏との関係を思えば、秦氏が築造に関わった可能性も考えられる。

 太秦の嵯峨野古墳群は、平安遷都以前の京都を知るうえの貴重な歴史遺産であるが、多くが開発のために発掘調査後埋設され、今日その姿を見ることはできない。蛇塚古墳は、保存と開発のはざまにあって、ギリギリ紙一重のところで残された。歴史遺産の保存はどうあるべきを考えるには格好の事例といえる。

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2015年4月26日 撮影

昭和13年頃の蛇塚古墳。
(『近畿地方古墳墓の調査』3 1938年より)


古墳位置図。
空から見ると、前方後円墳の輪郭に沿うように
住宅が建っているのがよくわかる。



東南方向にある石室開口部。
内部見学は京都市文化財保護課に見学願いを提出するのが
正式だが、古墳のすぐ前にある「蛇塚古墳保存会」の
お宅を訪ねてお願いすれば、鍵を開けてもらえる。