山科盆地の北西端、地下鉄東西線「蹴上(けあげ)駅」の東方に日向(ひむかい)大神宮がある。周囲の山は神体山で、日御山(ひのみやま)と称し、境内の背後は鬱蒼とした桧、杉の大木に囲まれている。
地名の「日ノ岡」は、西・南・北の三方を山に囲まれているが、東方のみ開け、朝陽が差し込む地であることから名付けられたという(府地誌)。つづく「一切経谷」は、奈良時代の9世紀後半、最澄の弟子・円仁が、この地に「一切経堂」を建立したことに由来する。
当神宮入口の一の鳥居は三条通に面し、京の七口の一つ「粟田口」にあたる。近代以前は、京都に居ながら伊勢への代参ができる「京の伊勢」として、また東海道を旅する人の安全祈願所として賑わっていた。
当神宮の略記には「京都最古の宮」と記されており、古くは日向宮、日向神宮、日岡大明宮、蹴上大神宮、近世には粟田口神明宮、恵美須谷神明とも呼ばれていたという。伊勢神宮の流れをくむ神明造りの本殿は、外宮と内宮に分かれ、内宮(上ノ本宮)に天照大御神(あまてらすおおみかみ)と宗像三女神の多紀理毘賣命(たぎりひめのみこと)・市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)・多岐都比賣命(たぎつひめのみこと)。外宮(下ノ本宮)に天津彦火瓊々杵尊(あまつひこほににぎのみこと)、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)が祀られている。
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創建年代について、略記には第23代顕宗(けんそう)天皇の時代(485〜487年頃と比定)、筑紫日向の高千穂峰の神蹟を勧請したのが始まりとされている。しかしながら、顕宗天皇の時代は古墳時代に相当する。記紀に登場する日向神話と結びつけるのには、無理があると思われる。
「東(ひがし)」は、太陽が上る方角という意味の「日向かし(ひむかし)」の転であることは周知の通りで、「日向」と「東」は同源とされる。松前健氏は「日向神話の形成」(『日本神話の形成』所収)のなかで、「日向という地名は、朝廷側からの後世的な比定に過ぎないもので、現実のその地方の伝承とは、無関係だ」とし、「わが古代人は、朝日・夕日の照らす陽光の地を、聖なる儀礼の実修の場として選び、それを「日向」と呼んだことは、確かであるらしい」と記している。
「日向」を、地名をあらわす固有名詞とみるのではなく、普通名詞の「東(ひむかし)」と捉えれば、当神宮の祭祀は、京都盆地の東の山(日御山)に、太陽神を祀ったことが信仰の始まり、としてよいのではないだろうか。
7世紀、第38代天智天皇が圭田(祭祀用の田)を寄進され、鎮座の山を日御山と命名された。山の名は、その他にも日向山、神明山(しんめいさん)などがある。
平安時代初期、第56代清和天皇(在位858〜876)の勅願により天照大御神を勧請し、「日向宮」の勅額を賜った。また、同時期の貞観年間(859〜877)、都で疫病が流行した際、境内にある「朝日泉」の霊水を与えると、たちまち疫病が治まったという伝承が残されている。このあたりが実際の創建年代と考えたい。
第60代醍醐天皇によって宮幣社に列し、その後、室町時代の応仁の乱(1467〜77)で社殿や古記録が焼失したが、江戸時代に入った慶長19年(1614)に近隣の松坂村の農民・松井藤左衛門によって仮宮が造営され、寛永年間(1624〜44)に、伊勢松阪の野呂宗光により本格的に再興が行われた。
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古式ゆかしい社殿を後に、内宮の左脇にある「影向(ようごう)岩」を過ぎ、神明山へ向かう山道を少し登ると、巨大な岩塊をくり抜いた「天の岩戸」がある。
天の岩戸とは、内宮の祭神・天照大御神が、弟の素盞嗚尊(すさのおのみこと)の乱行に怒り、その身を隠したといわれる洞窟のこと。
当神宮にある天の岩戸は、通り抜けのできる長さ7mほどのL字状の岩穴で、奥の曲がり角には戸隠神社の祠が置かれ、祭神に天手力男命(あめのたじからおのみこと)が祀られている。
一見、横穴墓の羨道(えんどう)のように見えるが、開口部が2つある墓は考えられない。明らかに人の手で掘られた岩穴だが、いつごろ、何のために造られたのかは皆目不明である。
確かなところでは『京都府山科町誌』(1930年)に、伊勢松坂の野呂宗光が、天の岩戸から神が現れる霊夢を頻繁に見たことから社を再興したとあるから、17世紀には、すでに存在が確認されていたと思われる。
毎年2月3日の節分祭には、岩穴をくぐり抜けると、一年の罪、穢れが払い清められ、厄をくぐり福を招くといわれる「ぬけ参り」の祭儀が行われている。
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2015年4月26日 撮影
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内宮前の左隅にある影向岩。
神様が光臨する神聖な岩とされる。
岩穴内にある戸隠神社。
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