初詣ランキングでは関西で1位。正月3が日で約270万人の参拝者が訪れる。


奉納鳥居の初穂料は5号サイズで17万5000円から、10号サイズで130万2000円から。鳥居の寿命はおよそ20年という。


新池のほとりに立つ熊鷹社。左列の3匹の狛狐は巻物を、右列3匹は玉(宝珠)をくわえている。
伏見稲荷大社の狐がくわえているものは、他に鍵・稲穂の4種類がある。


鳥居と祠が林立する稲荷山の「お塚」群。混沌とした不思議な風景である。


御剱社(みつるぎしゃ)。社殿のなかに剱石が祀られているという。


御剱社の背後にある釼石(雷石)。高さはおよそ3mほど。
 関西に「病弘法、欲稲荷」という俗諺がある。「弘法」とは「東寺」のこと、「稲荷」は「伏見稲荷」のことで、病気平癒は弘法大師に、商売繁盛・金儲けはお稲荷さんにお願いしろという意味である。なるほど、千本鳥居を背後から眺めてみると、奉納者の名前や企業名が年月日とともにずらりと並んで、御利益目当ての「欲稲荷」がいかに絶大なものであるかが垣間見える。
 境内には、約1万基の鳥居があるといわれるが、実際には何本あるのか。これを京都の学生が数えあげ、ホームページ「伏見稲荷大社の鳥居の数を数えよう」に公開している。その貴重なデータには、人がくぐれるサイズの鳥居の数は、3381基(2010年2月21日現在)であったと記されている。

 江戸の町で、やたらと目についたものが「火事喧嘩、伊勢屋、稲荷に犬の糞」であったという。稲荷社の数が激増したのは、商人の活動が活溌になった江戸中期以降のこと。元々は雷神を祀って穀物・農業神としたものだったが、渡来人系の秦氏の勢力拡大にともなって、稲荷山とその周辺に古墳が造られ、神体山信仰の対象となった稲荷神は急速に拡大していった。平安時代に入ると弘法大師空海の開いた東寺の鎮守となって真言密教と習合し、建久5年(1195)には後鳥羽天皇より「正一位」の神階を授けられる。中世から近世になると、現世利益を与えてくれる「お稲荷さん」として崇められ、伏見稲荷大社から分霊を授かる稲荷勧請が流行する。現在でも、稲荷社は日本で一番多く約3万社あるといわれている。このほか屋敷神として個人宅や会社・工場などに祀られている小祠までを含めると、稲荷社の数は膨大なものとなる。

 稲荷大社は、秦中家忌寸(いみき)の祖・秦伊侶具(はたのいろぐ)により、和銅4年(711)2月初午の日に創建されたと伝えられている(初見は「稲荷社神主家大西(秦)氏系図」)。『山城国風土記』の逸文によれば、富裕に奢った伊呂具が、餅を的にして矢を射ると、的はたちまち白鳥と化して飛び去りて山の峰に止まり、そこに稲が生えたという。この奇瑞にちなんで「伊奈利(いなり)」と名づけられたとある。
 この伝承に因み、稲荷の語源は、稲が生える「稲成」「稲生(いねなり)」が転化したもので、稲魂信仰に由来すると考えられている。

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 伏見稲荷大社のもっとも重要な聖域が、本殿の背後に控える「お山」と呼ばれる稲荷山(233m)である。古くから「三ケ峰」と呼ばれて、麓から順に三ノ峰、二ノ峰、一ノ峰と称し、最も奥山である一ノ峰の上社に大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)、二ノ峰の中社に佐田彦大神(さたひこのおおかみ)、 三ノ峰の下社に宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)が祀られている。『延喜式神名帳』にある「稲荷社三座」がこれにあたり、のちに下社摂社の田中大神と中社摂社の四大神(しのおおかみ)の二座を加え、これら五柱の神々の総称が「稲荷大神」といわれている。
 また、稲荷山の山頂から西山麓にかけて、古墳時代前期から中期の古墳が20基以上点在しているという。3つの峰それぞれにも、4世紀後半の築造とみられる大型円墳が残されている(二ノ峰古墳は前方後円墳の可能性あり)。一ノ峰古墳はほぼ全壊しているが、二ノ峰古墳ではニ神ニ獣鏡と変形四獣鏡が見つかり、三ノ峰古墳からは、明治26年(1893)に竪穴式石室から二神二獣鏡と捩文鏡が出土している。

 「お山めぐり」の総延長は約4km。千本鳥居をくぐり抜けると、一見、墓標のようにも見える「お塚」とよばれる夥しい数の石碑と小祠群に行き当たる。薄暗いなかに苔むした石碑や狛狐が無数に林立する光景は、本殿付近の煌びやかな装いから一転して、まさに「魔界めぐり」の様相を呈している。

 お塚とは、おのおのの稲荷講が、稲荷大神に別名をつけて石にその神名を刻み、お山に奉納したもので、いわば私的な神を祀る奉拝所といえる。
 当社がおこなった「お塚」調査によると、明治35年(1902)には633基、昭和14年には2500基、昭和40年、41年の調査では7762基に増えた。現在、調査はおこなわれていないが、その数は1万基を超えるのではといわれている。
 一見、不規則に林立していると思える「お塚」だが、『日本の神々─神社と聖地〈5〉』 (白水社)によると、一ノ峰、二ノ峰、三ノ峰を中心に「それぞれ円陣をえがき、いわばストーン・サークル状に配されている」という。実際にはどう配置されているのか、一度歩いただけでは分からなかった。

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 稲荷山の名がつく古墳名は『全国遺跡地図』に掲載されているだけでも189基あるという。五来重氏によると「古墳に祀られる神はほとんど稲荷と考えていい」という(「稲荷信仰の起源」『京の社・神々と祭り』人文書院)。さらに、稲荷社に残る古い時代のお塚の絵には「塚のような盛り土をして、そのまわりに忌垣をまわして真中に木を1本たてる形で」あり、これによりお塚信仰の古層には、祖先を祀る祖霊信仰があったことはあきらかであるという。

 お塚は、いわば古来の「磐座信仰」の片影といえるものだが、その起こりとなる磐座が、御劔社(みつるぎしゃ、別名:長者社)の背後に鎮座する劔石(つるぎいし)である。
 劔石は、別名を雷石ともよばれるが、御劔社の祠の中に、剣の形状をした劔石が祀られているともいわれている。祠が閉じられているため、どちらが劔石、または雷石であるのかは定かでない。
 御劔社の別名「長者社」は、当社を創建した秦伊侶具を長者とすることから、稲荷山のなかでも最も古い神蹟とされている。「雷石」については、稲荷大社の神官・秦親盛により享保17年(1732)に編纂された『稲荷谷響記』のなかに、その昔、この岩に雷が落ちたので、神がその雷をこの岩に封じ込め、縄で縛ったとの伝承がある。

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 本来、穀霊神とされる稲荷大神だが、秦氏が鍛冶・製鉄技術に卓越した氏族であることから、稲荷はまた、鍛冶神としての側面をもつとも考えられている。
 御劔社の祭神は、刀造りに必要な火の神・加茂玉依姫(かもたまよりひめ)である。平安時代の刀工、三条宗近(さんじょうむねちか)が、稲荷大神の遣いである子狐の力を借りて、一条天皇の宝刀「子狐丸(こぎつねまる)」を鍛えたことが、謡曲「小鍛冶」によって今に伝えられ、御劔社の左手には「焼刃の水」と呼ばれる井戸が残されている。

 窪田蔵郎氏の『鉄から読む日本の歴史』(講談社学術文庫)によると、稲荷の起源は「大陸から伝来した陰陽五行説や十二支などの影響を含んだ原始宗教の一種で、おそらく風神信仰の発展したものではなかろうかと考えている。というのは、古来から東南風のことをイナサとよび、これが転化してイナセともよばれているが、これがイナリに変化したのではないか」と推測している。
 とすれば、イナリは「鋳成」であり、イナリ神は「鍛冶の神」と解することができる。
 毎年11月には伏見稲荷恒例の火焚祭(ひたきさい)が行われる。ふいご祭とも呼ばれるこの神事は、もともとは鍛冶屋や鋳物屋など火を使う職業の人々の祭りであったという。食物の神とされていた稲荷が、いつしか穀物を調理するための火の神に転じ、鍛冶屋の神となっていったとも考えられる。
 この説をとれば、稲荷の鳥居はなぜ赤いのか? も容易に解ける。

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2015年4月26日 撮影

伏見稲荷大社境内図(伏見稲荷大社ホームページより)


きつねは「稲荷大神」のお使い(眷族)とされているが、
これには諸説ある。一般的なものは、稲荷大社の祭神、
宇迦之御魂神の別名が御饌津神(みけつかみ)であり、
その「みけつかみ」が「三狐神」と当て字されたことから
「狐神」の信仰が生じたという。
また、荼枳尼天(だきにてん)が、白い狐に乗る神と
考えられ、稲荷神と習合したともいわれる。


お塚に奉納されたミニ鳥居。これもすさまじい数になる。


打越流造(うちこしながれつくり)の本殿。前面の庇を二間分大きく伸ばした屋根が特徴。
現在の本殿は応仁の乱による焼失ののち、明応8年(1499)に再建された。