岩屋神社二ノ鳥居。社殿は弘長2年(1262)に再建された。


奥の院参道。本殿より山道を400m程の登っていく。


奥の院に鎮座する陰岩。栲幡千々姫命が祀られている。


奥の院の陽岩。天忍穂耳命が祀られている。


陽岩側面。男性は陰岩から、女性は陽岩から参拝すると結縁成就するという。
 醍醐山の北に連なる高塚山(485m)の北西麓、岩屋(いわや)神社の社殿は、大宅中小路町(おおやけなかこうじちょう)という地名にあるが、めざすところの奥之院の地名は大宅岩屋殿(おおやけいわやでん)。社殿から奥之院まで、朱塗りの鳥居が並ぶ杉木立の山道を、東におよそ20分ほど上って行かなければならない。

 『角川日本地名大辞典』によれば、大宅(おおやけ)は、「藤原鎌足(614〜669)の陶原(すえはら)館跡伝承地で、白鳳期の寺院跡大宅廃寺もあり(大宅鳥井脇町)、古くから開けた地であることが知られる。地名の由来は、もと公(おおやけ)村と称していたのを鎌足が大宅村と改めたとも(府地誌)、陶原館が「大屋家(おおやけ)」と称されたことに由来するともいう。」とある。
 大宅廃寺については、鎌足の私邸を寺とした山階寺(やましなでら、山階精舎)であったという説。この地を地盤とする豪族、大宅氏の氏寺とする説がある。

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 社伝によれば、発祥は仁徳天皇31年(343)、奥之院の陰陽2つの巨石を、磐座として祀ったことが当社の起源とされている。境内から奈良時代以前の土器が出土しているというから、社殿が建てられる以前の古墳時代には、周辺地域の産土神として崇拝されていたのだろう。
 後年の平安時代初期、宇多天皇の寛平年間(889〜898年)には、「陽岩」に天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)を、「陰岩」に栲幡千々姫命(たくはたちぢひめのみこと)を、また、岩の前の小社には、大宅氏の祖神として饒速日命(にぎはやひのみこと)を祀ったとある。
 平安初期の史書『先代旧事本記』には、饒速日命は天忍穂耳命と栲幡千々姫命の間に生まれた子で、天火明命(あめのほあかり)と同一の神であるとされ、物部氏の祖神と伝えられている。
 社殿は治承年間(1177〜1180)に、園城寺僧徒によって焼かれたが、弘長2年(1262)に再建され今日に至っている。

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 平安京遷都に際し、桓武天皇は都の四方(東西南北)に4つの磐座を定め、そこに「一切経」を埋め、霊的な守りとしたという伝承があるが、山科にもこれに類似する「東西上の岩屋三社」と呼ばれる伝承が残されている。
 東岩屋が当社で、西岩屋が山科区西野山の中腹にある山科神社。上岩屋については不明とのことだが、上岩屋の「上」を北と解し、四ノ宮中在寺町の諸羽(もろは)神社を比定地とする説もある。

 しかし、「上」=「山」と考えれば、山科神社ー岩屋神社ラインの延長線上にある音羽山山頂、もしくは牛尾観音あたりに磐座があったとも考えられる。というのも、山科神社は延喜式にある「山城国宇治郡 山科神社二座」に比定されており、岩屋神社も二座の一つと見なされていたという(現在は否定されている)。また、山科神社側では、岩屋神社を奥の院と位置付けているが、岩屋神社にそうした由緒は見られない。
 両神社の結びつきに確かなものはないが、岩屋神社を山科神社の奥の院と仮定すると、神社としての成り立ちは岩屋神社の方が古いと考えられ、山科神社ー岩屋神社ー音羽山と連なる神体山信仰の可能性もありうるのではないだろうか。

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2015年4月26日 撮影

拝殿。


朱塗りの鳥居が並ぶ奥之院参道。


案内板。