京都縦貫自動道「千代川インター」から府道73号線に入り、大堰川(桂川)に架かる月読橋を渡って、のどかな田園風景の広がる亀岡盆地を東に横切る。出雲大神宮は、正面に見えるなだらかな山容をなす御影山(みかげやま、御蔭山とも)を神体山として、その西麓に鎮座している。
当社のある亀岡市は、山城国から出雲国に至る山陰道の東端に位置し、古くは丹波国桑田郡(くわたのこおり)と呼ばれていた。地名については『日本書紀』垂仁87年条の「丹波国桑田村」、郡名については継体即位前紀条の「丹波国桑田郡」が初見とされる。
「桑田」の地名は、この地で養蚕業が盛んであったことを示すもので、亀岡市内には秦氏ゆかりの松尾系の神社が多く存在することから、養蚕、機織などの技術で栄えた秦氏が桑の木を植えたことが発端ともいわれている。
当社の西約700mには、5世紀末から6世紀前半の築造とされる「千歳車塚古墳」がある。丹波地方屈指の前方後円墳(片直角型)で、墳丘長約82m(推定復元約88m)、後円部の高さ約7.5m。周辺にも出雲系と思われる方墳が多く点在している。また、南約2kmには、奈良時代末期の創建とみられる丹波国分寺跡と国分尼寺跡がある。日本海方面と都を結ぶ要衝の地・丹波は、秦氏系、出雲系、大和系の古墳・神社の混在が示すように、広汎な文化の交流が行われた地域であり、当社の周辺が、古代丹波国の中心地であったことがうかがえる。
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出雲大神宮の境内には、「春日社」や「夫婦岩」などの名前のついた磐座だけでなく、本殿の裏手や参道沿いのあちこちに、注連縄を巻かれた無名の磐座が点在している。さらに、真名井の神水や御蔭の滝とよばれる霊泉があり、ミネラル豊富な名水を求めてポリタンク持参で水を持ち帰る参拝者も多くみられる。
御影山には、社務所で許可をもらい、タスキを借りて入山する。「上の社」の東にある2本の柱だけで横木のない注連縄鳥居が、神体山の入り口になる。磐座まではおよそ10分。前を歩いているのは、お賽銭の回収に向かう巫女さんひとり。ほかに人の気配はなく、参道を上るにつれて神域の度は一段と深まっていく。
境内のなかで、もっとも清浄な場所である国常立尊(くにとこたちのみこと)の磐座群は、神体山の中腹にある。石灯籠から先の磐座群は禁足地になっており、薄暗い木立のなかは、幽暗な気配を漂わせ、大小の磐座が累々と横たわっている。
たしかにここは、何か非現実的な空間であり、人間が安易に足を踏み入れるべきではない特別な場所であると感じられる。
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当社の起源や創建年代は不詳であるが、社伝によると、奈良時代の和銅元年(708)に大神朝臣狛麻呂(おおみわのあそんこままろ)が丹波国司に着任し、その翌年(709)に社殿を建立したとされる。それ以前は本殿の背後にそびえるご神体山の御影山が信仰の対象とされ、その起源は1万年以上に遡ると伝えている。
平安遷都後の弘仁9年(818)、『日本紀略』に「丹波国桑田郡出雲社、名神に預る」の記述があり、すでにこの時代には、中央政権と関わりをもつ有力な神社であったことがわかる。貞観14年(872)に従四位上(日本三代実録)、元慶4年(880)正四位下(日本三代実録)、延喜10年(910)正四位上(日本紀略)。正応5年(1292)には、雨乞いの功を示したことから最高位の正一位に進階(西園寺相国実兼公日記)。「延喜式神名帳」では、丹波國桑田郡19座の筆頭にあげられ名神大社の一つに列している。
現在の本殿は、貞和年間(1345〜50年)に足利尊氏によって建立されたものと伝えられている。近世末期には衰微したが、明治4年(1871)に國幣中社に列せられ、戦後、以前の出雲神社から現在の出雲大神宮に改称された。祭神は、大国主命(おおくにぬしのみこと)、その后・三穂津姫命(みほつひめのみこと)を祀る。三穂津姫命は、天祖高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の娘神で、ミホツヒメの「ツ」は「の」を意味し、出雲の美保神社に祀られている。美保の地名は、三穗津姫によるものとする説もある。ちなみに、亀岡の地名は、江戸期までは「亀山」と呼ばれていたが、明治になって「伊勢亀山」との混同をさけるために、現在の「亀岡」に改称された。
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吉田兼好の『徒然草』(第236段)に、「丹波に出雲といふ所あり。大社を移して、めでたく造れり」ではじまる一節がある。言い換えると「丹波の国に、島根県の出雲大社から神様をお招きして、社を築いた」という意味になる。これによると、すでに鎌倉時代には出雲大社から大国主命の分霊を勧請し、創建されたと思われていたようだ。
神社の知名度からすれば、当然のごとく思える記載だが、当社の社伝によると、その関係はまったく逆になり、出雲大社が当社から勧請を受けたのだという。
その根拠とされるのが、『丹波国風土記』の逸文「奈良朝のはじめ元明天皇和銅年中、大国主命御一柱のみを島根の杵築の地に遷す。すなわち今の出雲大社これなり。」の文言である。
そもそも現在の出雲大社は、明治時代初期まで「杵築(きづき)大社」と呼ばれていた。江戸時代末までは「出雲」といえば、出雲大神宮を指していたとされ、それゆえに「元出雲」とも呼ばれているという。
ただし、逸文の中には、奈良時代の風土記の記述であるか疑問視されているものも存在し、史料的価値には問題が指摘されている。
帰するところ「元出雲」の由緒も不詳となるが、当社を建立した大神(おおみわ)朝臣狛麻呂は、奈良県三輪山の大神(おおみわ)神社を祀る氏族であり、大神神社の祭神は、出雲大社の祭神・大国主(おおくにぬし)神と同一神(日本書紀)とされる大物主(おおものぬし)神である。
なぜ、出雲から遠く離れた丹波の地に「元出雲」とも称される出雲大神宮があるのかという疑問は、大和最高の聖地である三輪山に、なぜ出雲の神が祀られているのかという疑問に、そのまま重なってくる。
村井康彦氏は『出雲と大和』(岩波書店)の中で、磐座信仰は出雲系に限られたものではないが、出雲の磐座信仰の背景には、鉱山の開発、とくに鉄生産との関わりのなかで広まっていったと推察し、「祭祀=信仰の形態、すなわち「磐座信仰」はそのまま出雲系統の祭祀=信仰を表徴するものといってよいだろう。したがってその磐座信仰の連鎖が出雲と大和の間にあったにちがいない」と記している。
「元出雲」の由緒を考察するには、島根の出雲ばかりでなく、大和の出雲にも目を向ける必要があるようだ。
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2015年4月28日 撮影
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鳥居脇の石標には「國幣中社出雲神社」と刻まれている。
明治4年に國幣中社に列せられ、
戦前までは出雲神社と呼ばれていた。
社名標は出雲大社の元宮司・千家尊福の筆によるもの。
本殿後方の森のなかに、5世紀から6世紀初頭の
横穴式石室の開口部が見える。
御蔭の滝(龍神乃神)。
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