貴船神社本宮の参道石段。賀茂川の源流域、貴船山の麓に鎮座する。


奥宮境内にある船形石。長さ約10m、幅約4m、高さ約2m、外周約24m。明らかに人の手により造られたものである。


玉依姫が乗ってきた黄船を人の目にふれぬように包み隠したといわれる石積み遺構。奥に奥宮本殿がある。


古くから「船玉神」として信仰され、現代でも船舶関係者等からの尊信が篤い。


奥宮本殿。本殿の床下には、誰も見てはならぬとされる龍穴が納められている。平成24年の本殿解体修理では
約150年ぶりに、龍穴を人目に晒すことなく作業を行う附曳神事(ふびきしんじ)が復活された。
 貴船の地名は「きぶね」とにごるが、神社名では水の神様を祀ることから濁音(だくおん)を嫌い「きふね」と読む。

 当社の創建年代は不詳だが、社伝によると約1600年前の第18代反正天皇(在位406〜411)の御代、賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)の娘で、神武天皇の母とされる玉依姫(たまよりひめ)が、浪花の津(大阪湾)から黄色い船に乗って、淀川、賀茂川、貴船川をさかのぼり、現在の奥宮の地にたどり着いた。ここに清水の湧き出づる霊境吹井(ふきい)を認めて、一宇の祠を建て水神を祀り、「黄船の宮」と称し崇めたのが当社の起こりと伝えている。
 奥宮本殿の西側にある「船形石」は、玉依姫が乗ってきた黄船を、人目に触れぬよう石で覆ったものという。

 奥宮の霊境吹井は、「日本三大龍穴」の一つとされ、今も本殿の下に納められている。神聖な龍穴は、人目を忌むため誰も見てはならないという厳しい決まりがあるという。
 文久3年(1863)の本殿修理の際、大工があやまってノミを龍穴の中へ落としたところ、一天にわかにかき曇り、突風が吹きすさんで、ノミは空中へ吹き上げられ屋根に戻された。それからほどなくして、大工は命を落としたという。
 日吉大社東本宮の樹下宮にも床下に霊泉の井戸があった。社殿のなかった時代には、この龍穴のある場所が、古代の祭祀場であったと考えられる。

 貴船神社は本宮、結社、奥宮の3社から成るが、現在の本宮の位置は、永承元年(1046)と天喜3年(1055)の2度にわたる洪水被害の後に定まったもので、本来の本宮は、奥宮の位置にあったと考えられている。
 祭神は水を司る神・高龗神(たかおかみのかみ)、または闇龗神(くらおかみのかみ)とあるが、『諸社根元記』『二十二社註式』には罔象女神(みずはのめのかみ)と記されている。いずれも水の神で同神異名とされているが、高龗神の「高」は高い峰を、闇龗神の「闇」は深い渓谷を、罔象女神の「みずは」は泉・井戸を想起させる言葉である。古来の水神信仰に合わせて神の名も変わったものと思われる。

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 また、貴船神社には『黄舩社秘書』という古文書が残されている。表紙に「不許他見(たにみせるをゆるさず)」と記されたこの秘書は、当社の神職を代々務めた舌(ぜつ)家の貴重な縁起書で、社人・舌宗富により宝暦4年(1754)以降に著されたものとされている。それによると、

 遥か昔、貴船の神々が天下万民救済のために、天上界より「丑の年の丑の月の丑の日の丑の刻」に、貴船山(699m、当社の西に聳える)の中腹にある「鏡岩」と呼ばれる磐座に降臨された。従者として仏国童子(牛鬼)も降りられたが、はなはだ饒舌であったこの童子は、神界のことは一切しゃべってはならむという戒めを破り、誰彼構わずに神界の秘め言をしゃべってしまう。これが貴船大神の怒りに触れ、童子は舌を八つ裂きにされ、貴船を追放される。童子はいっとき吉野山に逃げるが、やがて貴船に帰り「鏡岩」に隠れていた。3年目にしてようやく許され、再び貴船大神に召しかかられたという。
 その後、仏国童子の子孫4代目までは鬼の姿をしていたが、5代目にしてやっと人間の姿になり、先祖の苦難を忘れぬために名字を「舌(ぜつ)」と名乗った。また、『黄舩社秘書』の巻末には舌家104代までの系図が残されている。残念ながら舌家の本家筋はすでに絶えてしまったが、分家筋の血脈は今も貴船の地に受け継がれている。

 貴船の神々が天降ったとされる「鏡石」は、本宮の西を300mほど登ったところにあるが、現在禁足地となっておりこれを見ることはできない。磐座はいくつかの大きな岩が積み重なり、中に人が屈めるほどの空洞があるという。童子が屈んで隠れていたことから「かがむ」が「かがみ」に転じ「鏡石」と呼ばれているという。
 貴船神社公式ホームページの「境内案内図」を開き、本宮の左にある「鏡岩」をクリックすれば写真が見られる。

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 貴船の名は、玉依姫が乗ってきた「黄船」に由来するといわれているが、古く貴布禰、木船、氣生根、木生根(木生嶺)などとも表記されていた。
 谷川健一編『日本の神々 神社と聖地 〈5〉』には、「「黄船」説は当社が賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ、上賀茂社)の摂社となってのちの付会と考えられ、「木生根」説のほうが信憑性を感じさせる」と記している。「木生根」とは、樹木を育成する木の神・山林の神を表わすとされている。

 貴船社は元来独立社であったが、長保5年(1003)に賀茂社の末社である河合社、片岡社とともに貴船社が従三位になっていることから、貴船社はこれ以前に下上(げじょう)賀茂神社の摂社になっていたと思われる。
 当社の初見は、『日本紀略』弘仁9年(818)5月8日条で、この時「大社」に列格し、同6月21日には従五位下を授けられ、以後も、貴船社は急速に発展していく。
 古代において、祈雨・止雨の奉幣祈願は、為政者がなすべき重要なまつりごとであった。賀茂川の水源域にある貴船は、奈良時代の大和の室生龍穴神社、吉野の丹生川上神社につぐ、あらたな祈雨・止雨の祈願所として朝廷から篤い信仰を得るところとなった。

 しかし、祈雨の際には、上賀茂社の社司が当社におもむいて奉幣したというから、これが、貴船社にとって本意であったかは定かでない。このような両社の関係は、近世に入り、賀茂社からの離脱運動へと展開していく。古くは応安5年(1372)の訴訟にはじまり、500年のちの明治4年(1871)に、ようやく賀茂社からの独立がかなう。

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 こうしてみると、下鴨神社の祭神である玉依姫が、黄船に乗って貴船川をさかのぼったという伝承は、現在の京都市北部に強大な勢力をもっていた賀茂氏に、貴船が取り込まれていった歴史を物語るものではないだろうか。すると「船形石」は、「黄船」伝承にもとずいて後世に造られたものと考えられる。

 『黄舩社秘書』にある鏡石の磐座伝承から、現在禁足地となっている貴船山が神体山であったことは明らかである。当初は、磐座や龍穴、滝などを祭祀の対象とした地方神であったが、のちに泉の上に社殿が建てられ「木生根社」とり、平安遷都後は、都を守護する祈雨・止雨の神として重んじられるようになった。
 平安中期以降には、伝説「宇治の橋姫」や謡曲「鉄輪」などによって、呪術的な「丑の刻参り」が流行する。丑の刻参りは、本来は丑の刻(夜中1〜3時)に神仏に参詣すると、心願成就するという信仰だったが、いつしか、藁人形と五寸釘で知られる呪詛の意味が付加されていった。
 現在では、和泉式部の伝承に因み縁結びの神として信仰され、陰陽師・安倍晴明の人気もあって、京都随一のパワースポットとして賑わっている。

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2015年4月27日 撮影

奥宮参道。本宮の上流700mの場所にあり、
以前はここが本宮であった。


つつみヶ岩。紫色をした貴船特有の貴船石。
重さは約43トン、高さ4.5m、周囲9m。


蛍岩。和泉式部(978〜1034)は貴船神社に参詣した際に
恋の成就を祈り「もの思へば沢の蛍もわが身より
 あくがれ出づる魂かとぞ見る」の名歌を残した。
貴船は今でも6月末頃から蛍が見られる。


樹齢1000年といわれる相性の杉。
貴船は「木生根」ともいわれ、山林の地主神であった。


本宮の齋庭(ゆにわ)で行われる「水占おみくじ」。
霊泉におみくじを浮かべると、
文字がゆっくりと浮かび上がってくる。


『都名所図会』の貴船社(1780年刊)。


案内板。