3本足の摩訶不思議な鳥居をはじめて見たのは、葛飾北斎(1760〜1849)の絵手本『北斎漫画』に描かれている「三才鳥居」だった。明神鳥居を3つの組み合わせて、正三角形の構造体とした一種異様なその姿は、一度見たら忘れられないモニュメントである。
鳥居は本来、神域への入り口を示すものだが、3本柱の鳥居では、くぐり抜けるともう1本の柱にぶつかり行きどまってしまう。これでは鳥居といえども、いわゆる「門」としての機能を果たしていないことになる。人がくぐり抜けるための鳥居でないとすれば、三柱鳥居はいつ頃、どのような思いを込めて作られたものなのか。
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三柱鳥居は京都・太秦(うずまさ)の「木嶋(このしま)神社」にある。当社は平安遷都以前にこの地を本拠地とした新羅系渡来人・秦氏ゆかりの神社で、正式には「木嶋坐天照御魂(このしまにますあまてるみたま)神社」といわれ、本殿の東側に養蚕と機織の神様を祀る「養蚕(こかい)神社」があることから、通称「蚕の社(かいこのやしろ)」とも呼ばれている。
由緒には京都市内最古の神社とあるが、当社の創祀については不詳である。正史における初見は『続日本紀』で、大宝元年(701)4月3日の条に「木嶋神」の名が見られ、『延喜式』神名帳では名神大社に列している。
『日本三代実録』には、元慶元年(877)に朝廷より祈雨の奉幣が行なわれたとの記述があり、平安時代には雨乞いの神として信仰されていたことがうかがえる。貞観元年(859)には正五位下に列せられ、長久4年(1043)には正一位を授けられた。
祭神には、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)を主神に、大国魂神(おおくにたまのかみ)、穂々出見命(ほほでみのみこと)、鵜茅葺不合命(うがやふきあえずのみこと)、瓊々杵尊(ににぎのみこと)の4柱が祀られている。
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三柱鳥居は、本殿西の「元糺(もとただす)の池」と呼ばれる神池のなかに建てられている。今では湧き水が涸れ池底を顕わにしているが、江戸時代には湧き水が小川となって流れていたようすが、『都名所図会』(1780年刊)のなかに描かれている。
昭和30年代中頃から神社周辺の宅地化が進み、下水道が施工された昭和60年頃を境に湧き水の水量が減りだしたという。毎年7月土用の丑の日には、境内の池に足をつけ、無病息災を願う「足つけ神事」が行われているが、今では井戸からポンプで水を汲み上げているという。地元では「木嶋神社の湧き水を復活させる会」を結成し、湧き水復活に取り組んでいる。
世界遺産に登録された下鴨神社(賀茂御祖神社)の社叢林「糺の森」のなかにも「糺の池」がある。木嶋神社の「糺の池」に「元」が付いているのは、嵯峨天皇(在位809〜823)の時代に潔斎(けっさい)の場を木嶋神社から下鴨神社に遷されたためで、「糺の池」の本元はこちらであるという1200年前の因縁が「元」となっているという。
「糺(ただす)」の語源については、由緒書きにある「糺(ただす)」は「正しくなす」「誤りをなおす」の意とするほかに、賀茂川と高野川の合流点にできた三角洲を示すという「只洲」説。清らかな水が湧き出ることから「直澄(ただすみ)」とする説。下鴨神社摂社・河合神社の祭神・玉依日売の別名を多多須玉依姫命(ただちたまよりひめのみこと)と呼ばれることに由来するなどの諸説がある。
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三柱鳥居の起源等は明らかでない。現在の石製三柱鳥居は、天保2年(1831)に建て替えられたもので、柱の1本に「山城国葛野郡式内木嶋再興神主日向守神服宗夷/元糺大神降水本/天保二年辛卯十二月再興神主民部輔神服宗秀」の銘が刻まれていることから、当時の宮司であった神服宗夷によって修復されたことが確認できる。それ以前は木製であったらしく、社伝には亨保年間(1716〜36)に修復されたという記録が残されている。
稲田智宏氏の『鳥居』(光文社新書)によると、東京都墨田区向島の三囲(みめぐり)神社にも三柱鳥居があり、日本最大の財閥・三井家に守護神として崇められているという。その三井家が木嶋神社にも深く関わっており、『三井の縁故社寺』(鬼沢正著、 経済界)に、正徳3年(1713)「当時荒廃していた木嶋神社の神服氏の神職株を買って、新町家の台所役江尾市兵衛という者を神服日向守宗夷と改名させ、ここを三井家の祈願所とした」とあるが、これが社伝にある修復時期の亨保年間とほぼ同時期であり、この修復が三井家によるのは間違いなく、このときに初めて木製の三柱鳥居が建てられ、それが『都名所図会』や『北斎漫画』に描かれ、天保2年に現在の石製の鳥居が再建されたのかもしれない。と推察している。
全国唯一ともいわれ、他に類例のない建造物ゆえに、その由来についてはさまざまな説が唱えられている。
由緒書きにある景教(キリスト教のネストリウス派)説は、明治41年(1908)に発表された佐伯好郎氏の論文『太秦を論ず』の「秦氏=ユダヤ人景教徒」説が根拠になっているが、遺構に関しては、ほとんど語呂合わせ的なものであり、景教が中国に入ったのは7世紀半ばのことで、時代が合わず、学界からは問題にされていない。
大和岩雄氏が『日本の神々 神社と聖地 〈5〉』(白水社)において提唱された説は興味深い。三柱鳥居を上から見ると【図1】、秦伊侶具(はたのいろぐ)創建の伏見稲荷大社(稲荷山)が東南東に、秦忌寸都理(はたのいみきとり)創建の松尾大社(松尾山)が西南西に、真北には秦氏の祖霊が眠る聖地・双ヶ丘(ならびがおか)が位置している。すなわち正三角形の頂点は、いずれも秦氏ゆかりの神社・古墳であり、これらの神々を太秦に迎える門として、三柱鳥居が建てられたと推測している。
また、大和氏の『神社と古代王権祭祀』(白水社)には「たぶんこの地は、古くは鳥居だけの「日読み」の聖地で、この鳥居から拝される朝日・夕日が、天照御魂神であったにちがいない。「日読み」の山々を遥拝するためには、普通の鳥居より、このような鳥居の方が好都合だったのだろう。」と記している。
卓見と思うが、この説は木嶋神社創建の時期(701年頃)に、三柱鳥居が建てられたとすることで成立する。
鳥居の起源については諸説あるが、文献にあるものでは延暦23年(804)の『皇太神宮儀式帳』に「於不葦御門(うへふかずのみかど)」の言葉が、屋根のない門という意味で、鳥居を指す最初の記述とされているが、いずれにせよ、現在の形が確立したのは8世紀頃とみられている。鳥居を3つ組み合わせる複雑な形体の鳥居が、木嶋神社創建の時期に考案されたとするには無理があると思える。また鬱蒼とした森のなかに、遥拝所があるというのも考えにくい。とすれば、稲田智宏氏の想定する亨保年間頃に作られたとみるのが妥当ではないだろうか。
境内入口の石灯籠に「磐座宮廣前」の文字が刻まれているが、境内に磐座と思われる巨石は見当たらない。ここでの磐座とは、三柱鳥居の中央に積まれた組石を指していると思われる。三柱鳥居はこの磐座(組石)を囲うために作られた「垣=籬(まがき)」であり、神籬(ひもろぎ)の役をになう建造物ではないだろうか。池のなかに作られたのは、泉を恵みの根源として崇め、禊によって身体を清浄な状態にもどす禊祓(みそぎはらえ)のモニュメントとして作られたものと推測する。
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2015年4月26日 撮影
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境内入口の石灯籠に「磐座宮廣前」の文字が刻まれている。
江戸時代後期『都名所図絵』の木嶋社
『都名所図絵』木嶋社(部分)
境内を流れる小川のなかに三柱鳥居が描かれている。
八角形の石の柱に3行にわたって 「山城国葛野郡式内木嶋再興神主日向守神服宗夷/ 元糺大神降水本/ 天保二年辛卯十二月再興神主民部輔神服宗秀」と 銘が刻まれている。
大和岩雄氏の説(『神社と古代王権祭祀』より制作)
正三角形の頂点が、いずれも秦氏に関係する 神社(神体山)・墳墓などを向いている。
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