岩倉川沿いにある山住神社。山住の名は、山の神を意味する「山祇(やまつみ)」に由来するという。


右側の石垣が中央あたりで途切れている。かつては祠につながる石段があったのだろうか。


ご神体の前に小さな祠が置かれ、古代祭祀の名残を今に伝えている。


磐座の大きさは横2m、高さ1mほど。石の種類は蛇塚古墳で見た堆積岩の一種チャートに似ている。
 天応元年(781)4月、光仁(こうにん)天皇の譲位を受けて桓武(かんむ)天皇が即位(この時45歳)。皇太子には同母弟の早良(さわら)親王を立てられる。
 即位後の延暦3年(784)6月、天皇は中国の緯書にもとづく「甲子革令」に合わせて、当時、ほとんど未開の地であった山城国長岡京への遷都を断行する。

 遷都の理由については、◎水陸両面の交通の至便 ◎天武系から天智系に皇統が遷ったことによる人心の一新 ◎肥大化した仏教勢力や貴族勢力との決別 ◎山背国を拠点とする渡来系氏族秦氏の誘致 ◎奈良の大仏建立による水銀公害──などの諸説が挙げられている。

 延暦4年(785)9月、造営中の長岡京で思わぬ事件が勃発する。桓武天皇が大和国に出かけた留守の間に、天皇の信任厚く造都の責任者であった藤原種継(たねつぐ)が突如矢を射られ殺されてしまうのだ。
 暗殺犯はすぐに判明し、翌日には大伴竹良(ちくら)、大伴継人(つぐひと)ら10数名が捕縛され、ただちに斬首となった。事件直前に亡くなっていた中納言・大伴家持(やかもち)も、首謀者として官位を剥奪される。
 嫌疑は早良親王にまで及び、皇太子を廃され、乙訓寺(長岡京市)に幽閉される。乙訓寺での10数日間、親王は無実を訴え、かかる処遇を不満として抗議の断食を続けた。衰弱した親王は、淡路国への配流の途次、淀川の高瀬橋のほとりで息絶え、遺体はそのまま淡路島に運ばれる。享年36歳だった。

 新たな皇太子には、息子の安殿(あて)親王(この時11歳、後の平城天皇)が立てられるが、その後、桓武天皇のまわりにさまざまな凶事が頻発する。
 まず、延暦7年(788)に天皇の夫人の藤原旅子が30歳の若さで亡くなる。翌8年には生母の高野新笠が、翌9年には31歳の皇后藤原乙牟漏(おとむろ)が病死する。加えて延暦7、8年と凶作が続き、9年の秋冬には長岡および畿内で天然痘が流行する。11年には皇太子の安殿親王が重病となり、同年6月には豪雨による桂川の氾濫で式部省の南門が倒壊、8月も大雨となり長岡京に水があふれる。
 ここまで災禍が続くのは尋常でない。延暦11年、闘病と続ける皇太子の病状を陰陽師に占わせたところ、「早良親王の祟りである」という卦(け)が出た。天皇は、あわてて使者を淡路島に派遣し親王の霊を慰めるが、以後も凶事は続き怨霊の鎮まる気配はない。
 相次ぐ異変にたまりかねた天皇は、わずか10年で長岡京を捨て、起死回生を図るべく平安京への再遷都を決意する。

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 ながながと前置きしたが、本題はここからはじまる。
 平安遷都にあたって、桓武天皇は山背(やましろ)国を山城国と改め、古来中国の風水思想に詳しい高僧や陰陽師を集め、怨霊撃退の策を講じた都造りが計画される。
 まずは、土地の形状や方位、陰陽五行説などを考え合わせて「四神相応」の地に合致したレイアウトが考えられる。「四神」とは、東西南北のそれぞれの方位を守る神獣のことで、東は青龍、西は白虎、南は朱雀、北は玄武によってあらわされる。奈良県明日香村のキトラ古墳にも描かれており、四神が悪霊を祓い墓を守るとされている。
 しかし「四神」だけでは不安だったのだろう。さらに仏教の法力を取り込むために、長岡京では認められなかった新たな寺院である東寺・西寺は建立し、王城鎮護を祈願して都の四方に一切経を埋め、東西南北を冠する4つの岩倉(岩蔵)が設けられた。

 洛北の左京区岩倉にある山住(やまずみ)神社が、「四岩倉」の一つ「北岩倉」と考えられている。
 当社の創建年代は不詳だが、『日本三代実録』元慶4年(880)10月13日条に「山城国正六位上石座神……授従五位下」と記されているから、それ以前の創建であることは間違いないだろう。
 天禄2年(971年)に、当社から北に1キロほど離れた大雲寺の建立にともない、石座明神(現在の山住神社)が現在の石座神社(岩倉上蔵町)の地へ遷され、大雲寺の鎮守社となった。
 明治時代に入るまでは、山住神社は「石座神社」と呼ばれ、鎮守社となった神社は「八所・十二所明神社」と呼ばれていたが、明治以後に、現在の石座神社にその名を譲り、山住神社はその御旅所となった。

 山住神社の境内には、鳥居と拝殿があるのみで本殿はなく、境内の奥に神奈備山を背にした「磐座」が祀られている。磐座は台形状で大きさは横2m、高さ1mほど。石の種類は蛇塚古墳で見た珪質の堆積岩チャートに似ている。磐座手前の小祠の中にもおむすび形の石が納められているが、これは磐座の破片だろうか。祠の前方右手部分には石垣が築かれているが、左手部分はむき出しになった木の根が蛇のようにうねり山肌を這っている。石座神社に比べれば、殺風景ともいえる簡素な境内だが、この一角だけは、磐座信仰の面影を今に伝える森厳さをそなえている。

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 東西南北の「四岩倉」について、江戸時代前期に刊行された京都の地誌『雍州府志(ようしゅうふし)』巻1/山川門の北岩倉の項には、「古に王城鎮護のため、平安城の四方の山上に経を納め、これを岩倉といった。南は不明だが東北西は現存する」と記されているが、いまとなっては四岩倉の正確な設置場所を特定するのは難しい。
 経塚の造られる場所は、霊地や聖地とされる山頂や寺社の境内である場合が多い。こうした聖域には古代祭祀の行われた「磐座」が多くみられるが、「岩倉」の言葉が「磐座」を指し、その傍の土中に埋められたものなのか、あるいは経典を埋納した石組みの「経塚」を「岩倉(または岩蔵)」と称しているのかが明確になっていない。
 というのも、四岩倉の伝承地は、北岩倉=山住神社(左京区岩倉)、東岩倉=大日山の観勝寺(左京区)、南岩倉=明王院不動堂(下京区松原通)または男山(八幡市)、西岩倉=金蔵寺(西京区大原野)とされているが、この中で古代祭祀の「磐座」が残されているのは、北岩倉といわれる山住神社だけである。
 しかし、山住神社も北岩倉と確定しているわけではない。他にも推定地は挙げられており、都名所図会の「大雲寺」には「北岩蔵大雲寺」と記載があり、背後の紫雲山の山頂に経塚が築かれたとする見方もある。

 こうしてみると「岩倉」は石組みの経塚の意であり、直接「磐座」と関係するものではないと思えてくるが、どちらにしても早良親王の怨霊封じに効果はなかったようだ。
 延暦19年(800)3月に富士山の大噴火が起こり、さらなる天地異変が続く。同年7月に早良親王に崇道(すどう)天皇の尊号を与え、延暦24年、淡路島に追悼の寺を建立し、翌年には淡路島から遺骨を迎えて、大和国に改葬されている。
 平安遷都後も怨霊鎮護をつとめるが、それでも早良親王の怨霊が鎮まることはなかった。怪異は桓武天皇の臨終の日まで続いたという。

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2015年4月27日 撮影

四岩倉の位置図。
東岩倉は大日山の観勝寺、西岩倉は金蔵寺、
南岩倉は明王院不動堂または男山、
北岩倉は山住神社といわれている。
南岩倉を明王院不動堂とすると、
東西南北の四方の形がくずれてしまう。
やはり男山として、長岡京をも含めた
怨霊封じのバリアを築いたと考えたい。







案内板。

石座神社。本殿は東殿(八所大明神)と西殿(十二所大明神)からなり、一言主社、猿田彦社など多くの摂社をもつ。


案内板。