左の大絶壁が大丹倉。断崖の所々にが赤みを帯びた岩肌が見られる。


標高488m、大丹倉の頂上。こわごわ下を望むと尾川川の流れが俯瞰できる。かつては修験の行場でもあった。

 県道52号線から赤倉林道に入る。林道沿いにある丹倉(あかぐら)神社の入口を見逃したようだ。車は林道終点の駐車場に着いた。さきに大丹倉(おおにくら)から訪ねることにする。

 「丹(に)」の付く地名には、朱砂、辰砂(しんしゃ)、丹砂とも呼ばれる硫化水銀の産出地が多い。松田壽男氏の『古代の朱』には、「丹」が生じる意といわれる「丹生」という地名は全国に40余りあり、氏の調査ではそれらのことごとくが朱砂の産地であったという。

 大丹倉の「丹」は「赤い」という意味をもつ。ここも古くは水銀の産地であったのではと思ったが、大丹倉の「あか」は、水銀系の「あか」ではなく、鉄系の「あか」であるらしい。
 大丹倉の高さ200m、幅500mの岩壁は、火山岩である神ノ木流紋岩と呼ばれる地層で、流紋岩は普通、白っぽい色が多いが、岩に含まれている鉄分が風化によって酸化したため、断崖の所々に赤みを帯びた部分があることから「丹」という字が付けられたという。

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 大丹倉の北には、「熊野天狗鍛冶の発祥地」近藤兵衛の屋敷跡がある。案内板によると、兵衛は武士であったが、鍛冶を職とし、夜になれば大丹倉の岩壁にこもり、荒行をする修験者であったという。

 下村巳六氏の『熊野の伝承と謎』によると、「古代の紀伊・熊野地帯は、水銀・金・銀・銅・鉄の産地として、大和国家から重視されていた形跡がある」という。根来や高野山、伊勢国丹生(現在の三重県多気町)などは、水銀鉱の産地として知られており、熊野三山中の各所に金・銅を採掘した廃坑が見られるという。
 鉄に関しては、大丹倉の近藤兵衛が、ゴトビキ岩のある新宮の権太吉久(ごんたよしひさ)という鍛冶に矢の根の技術を授けたといわれている。戦国時代、新宮には鍛冶屋が蝟集しており、ヤジリを諸国に輸出していた。吉久は「天狗吉久」の銘でヤジリをつくり、豊臣秀吉、武田信玄などの武将や、全国の神社に献上したという記録が、熊野速玉神社の鍛冶文書に残されている。

 鍛冶ということから、大丹倉から硫化水銀ではなく、鉄鉱石が産出されたとも考えられるが、付近から廃坑の跡は見つかっていない。



高倉剱大明神。
この下に行者が残した剣が納められているという。


この岩場を登ると大丹倉の頂上に。



苔むした自然石が丹倉神社のご神体。
 往路では見逃してしまったが、赤倉林道沿いに鳥居があり、道下に丹倉(あかぐら)神社へ下る石段がある。駐車場はない。道が狭いので路肩ギリギリに車を駐める。

 杉木立の中にあるこじんまりとした境内には、周囲を巡る石垣と石灯籠、小さな祠があるのみで、余計な建造物は一つもない。じつにさっぱりしたものである。訪れる人は少ないと思うが、すがれた様子はなく、周囲には浄域のもつ独特なオーラが漂っている。
 奥にある注連縄を張られて鎮座まします巨石がご神体で、祭神は近藤兵衛と高倉下(たかくらじ)である。

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 植島啓司氏もここを訪ねておられ『世界遺産 神々の眠る「熊野」を歩く』のなかで、「ほとんど訪れる人もないこの神社のご神体は、やはり樹木が絡み、みごとに自然と共生している巨石だった。しかし、その空間にはごとびき岩の何倍も強烈な磁力が働いており、その振動で心が震えるような感じがしてならないのだった。」と感嘆している。
 私に磁力を感じる力はないが、原初の宗教形態がもつ、自然との親和力が息づいていることは分かる。

 三脚を据えて、逆光の磐座撮影に苦戦しているとき、一人の参拝客が訪れてきた。
 「このあたりに神社はありませんか」と聞かれ、
 「ここが丹倉神社です。あの大きな岩がご神体で、社殿も拝殿もありません」と答えると、ちょっと残念そうな様子。すぐに帰られると思っていたが、じっと磐座を見ておられる。
 私の方から話しかけてみると、この人は神社の社などをつくる大工さんで、通り道に神社があれば、寄って社殿等の建造物を見たくなるという。
 珍しい人に出会ったと思い、撮影そこのけで話し込んでしまった。大工になったきっかけから、建築に使う木の話し等々──。そして最後に、
 「神社には、そこにいて気持ちがよくなる神社と、悪くなる神社があります。ここは気持ちのいい神社ですね」
 私が撮影していることからの、お世辞ではあるまい。よき理解者を得た思いで、うれしくなった。

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2011年4月30日 撮影


境内にある祠。