高さ約70mの岩壁が花の窟のご神体。『日本書紀』にイザナミを「紀伊国の熊野の有馬村に葬りまつる」と記されている。


社殿はなく、窟の前に9m四方の瑞垣がめぐらされ、金色の御幣(ごへい)を立てて拝所としている。

 熊野川を渡って三重県に入る。国道42号線を渚百選の一つ「七里御浜(しちりみはま)」に沿って約20km北進すると、左手山の南面に、白味を帯びた奇妙な風貌の岩壁が見える。これが花の窟(いわや)。花窟神社のご神体である。
 いわや(窟)と言っても、人の入れる洞穴があるわけではない。岩壁の下部正面に、高さ6 m・幅2.5 m・深さ50cmのひょうたん状の窪みがあって、その前には瑞垣がめぐらされ、白い玉石の敷かれた拝所となっている。ここに花の窟の祭神・国生み神話の女神・伊弉冉尊(イザナミノミコト)が祀られている。

 『日本書紀』(神代巻)には、次のようにある。
「伊弉冉(イザナミ)尊、火神(軻遇突智:カグツチ)を生む時に、灼(や)かれて神退去(かむさ)りましぬ。故(かれ)、紀伊国の熊野の有馬村に葬りまつる。土俗(くにひと)、此の神の魂(みたま)を祭るには、花の時には亦(また)花を以て祭る。又鼓吹幡旗(つづみふえはた)を用て、歌い舞いて祭る。」

 イザナミは、火の神カグツチを生むときに、女陰(ほと)に火傷を負って亡くなり、熊野の有馬村に葬られる。村人は、この神の魂を祭るのに、季節の花を供えて、鼓・笛・幡旗をもって歌い舞って祭りを行う。……というもの。
 一方、『古事記』には、イザナミの墓所は、出雲と伯伎(伯耆)の境にある比婆山(現在の島根県安来市)と記されている。
 奇しくもイザナミの墓所を分かちあうかたちになった熊野と出雲だが、この真意はどこにあるのだろう?「日本の原郷」ともいえる両地方には、なにやら浅からぬ因縁があるようだ。ちなみに、出雲の熊野大社(松江市八雲町)は、出雲大社よりも歴史は古いとされ、和歌山の熊野大社は、出雲の熊野大社の分祀であり、出雲が熊野神の発祥地とする説もある。

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 花の窟は、他界への入り口であり、この窪みの向こうは、死者が赴(おもむ)く他界──黄泉の国へ通じる場所であったと考えられるが、それではなぜ、熊野が黄泉の国へのエントランスに選ばれたのか。
 その要因として、野本寛一氏は「熊野が、海彼常世との交流を可能にする臨海の地、しかも、南に突出した地だった」こと、さらに「海辺の洞窟を水葬的風葬の場とした古層の習俗が伊弉冉の死をイワヤの名を持つこの巨大な岩壁に結びつけた」ととらえている(『熊野山海民俗考』)。
 また、五来重氏は「熊野には古墳時代の古墳が存在しないことから、風葬が卓越しており、そのためとくに烏が神聖視された」と推理し、イザナギが黄泉の国で見た、イザナミの「脹満太高、膿沸虫流(はれただれ、うみわきうじたかりき)」という描写は、風葬の姿をとらえたものと解するのが自然だろうとしている(『熊野詣 三山信仰と文化』)。
 那智から熊野に至る村々には、補陀洛渡海の伝承が多く分布している。渡海信仰が生まれた起因として、古来に「水葬的風葬」の風習があったと想定することは十分に可能だろう。

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 神社境内に立てられた説明板には、
 「花の窟は七里御浜に突出する巨巌で千古の原始林におおわれ、御神体と仰ぐ巌は高さ七〇メートル許りある。
 当社には社殿はなく巨巌を以て御神体とするなど人為的加飾を極力排した古代人の自然物崇拝の遺風をそのまま素朴に伝えている。」
とある。
 ここでは「人為的加飾を極力排した」という文言に注目したい。久保田展弘氏『日本の聖地』にも記されているように、イースター島のモアイ像、イギリスのストーンヘイジ、フランスのモン・サン・ミッシェルなど、海外の巨石信仰には、石に手を加えることに臆する風はみられない。しかし、日本の場合は、その基層にアミニズム的要素をもつことから、石に注連縄を巻く程度で、石そのものに手を加えることはほとんどない。日本の巨石・磐座信仰を考える上での大事なポイントである。

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 参道の手水舎のかたわらに、直径1m余の苔むした丸石があるが、これは後日「熊野の丸石」で紹介したい。

2011年4月29日 撮影


七里御浜から眺めた「花の窟」。
延喜式神名帳に「花窟神社」の名はない。
神社の位格は明治になって与えられた。




「花の窟」の向かいに鎮座する「王子ノ窟」。
イザナギに斬り殺されたカグツチが祀られている。

毎年2月2日と10月2日に、花窟神社の例大祭「御綱掛神事」が行われる。
岩壁の頂から国道を越えて七里御浜まで、氏子たちによって約170mの大綱を張り渡し、
その網にはおよそ10mの縄旗が吊される。