瑞垣で囲まれた神内神社の聖域。ご神体は石英粗面岩の岩壁(写真左)。


ご神体の磐座。
 熊野速玉大社から北東に約5km。熊野灘の海岸から直線距離でわずか2kmしか離れていないが、そこは人里はなれた辺境の地、原始の森を彷彿させる不思議な生気に包まれていた。この森には、何かがひそみ、息づいている。

 神内(こうのうち)神社の境内は約7ヘクタール。石の鳥居をくぐるとすぐに、安産樹とも呼ばれているホルトノキがあり、左には参道に沿って流れる神内川の清流が、右には神武天皇と佐倉宗吾を祀る岩屋がある。参道の突きあたり、石段を下りると禊(みそぎ)のための御手洗場(みたらしば)、右に「子安の宮」の扁額を掲げた社務所があって、その奥が拝殿になっている。ご神体は、多数の水蝕洞穴がある石英粗面岩(熊野酸性岩)の岩壁で、その圧倒的な存在感は、ゴトビキ岩や花の窟に負けていない。

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 現在は、県の天然記念物に指定されて「神内神社樹叢」と呼ばれているが、古くは、逢初森(あいそめのもり)と呼ばれていた。
 案内板の由緒には、「当社の義は近石(ちかいし)と申すところに逢初森(アイソメノモリ)というのがあり、そこに伊弉諾尊(イザナギノミコト)、伊弉冉尊(イザナミノミコト)天降らせ一女三男を生み給う、この神を産土神社(ウブスナジンジャ)と崇め奉る、よってこの村の名を神皇地(コウノチ)と称す。いつの頃よりか神内村(コウノウチムラ)と改むと言い伝う」とある。

 イザナミが産んだ「一女三男」の神の名は記されていないが、察するところ『日本書紀』第五段の本文から、一女は大日霎貴(おおひるめのむち、天照大神の別名)、三男とは月神(つきのかみ)、蛭子(ひるこ)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)ではないだろうか。いずれも、花の窟、産田神社に登場する火の神・軻遇突智(カグツチ)の前に生まれた神たちである。

 紀宝町の町勢要覧で知ったのだが、樹叢から頭を突き出す磐座を、地元では神倉神社と同じ「ゴトビキ岩」と呼ぶらしい。イザナギ・イザナミ神話といい、神倉神社、花の窟、産田神社との類似点は多い。



神内川から上がってくる石段。
禊(みそぎ)のための御手洗場(みたらしば)だろう。


別名「子安神社」とも呼ばれ、社務所には、
たくさんの「よだれかけ」が奉納されている。


県の天然記念物に指定されている神内神社樹叢。右上に突き出た岩壁が「ゴトビキ 岩」。

 イザナギとイザナミが降り立ち、一女三男を産んだという神話の里・神内には、「ゴトビキ岩」の他に「古神殿」「亀石」「捨石岩屋」と呼ばれる磐座があるという。
 植島啓司氏の『世界遺産 神々の眠る「熊野」を歩く』(集英社新書)に、神内神社の総代からいただいたという「神内神社周辺図」が掲載されており、それらの場所が記されている。氏によれば、古神殿は「まさに天の岩屋みたいに石が二つに割れて女陰のようになっている」という。

 また「熊野地方の落人達」というホームページにも「古神殿」が紹介されている。これには、イザナギ、イザナミが天降ったのは烏帽子岩という高さ10メートル位の岩であったという。こちらは写真も掲載されているので参照されたい。

 蛇足だが、北野武氏が昨年末のテレビ番組でここを訪れたという。テレビの影響力は凄まじい。地元にだけ知られていた桜が、テレビで紹介さることで、多くの花見客が押し寄せ、数年の間に桜周辺の環境が大きく変貌していった例をいくつも見ている。
 「聖地」を継承し、次代に残すことは大切だが、急激な観光地化は「聖地」の荒廃をまねく元凶となる。
 交通至便で、年間何百万人の観光客が訪れるところに、ほんとうの「聖地」は存在しないと思っている。

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2011年4月29日 撮影



「神内神社樹叢」の中で、ひときわ目を引くのが、
岩を絡めるように根を張り巡らせたクスノキの巨木。
残念ながら09年10月の台風で上部が欠損してしまった。


【案内板】