神明造の産田神社社殿。社殿を囲む瑞垣の両脇に「神籬(ひもろぎ)」(写真下)の跡がある。
この地方の人たちは、子供を授かると安産祈願に、産田神社にお参りし、ここの石を目をつぶって拾う。
その石が丸ければ女の子、長細ければ男の子が生まれると伝えられ、無事に子供が産まれると、
お宮参りの際に、七里御浜で白石を拾い、元の石と一緒にここに返すという。
本殿を囲む瑞垣の左手にある「神籬(ひもろぎ)」。古代の祭祀施設といわれている。
花窟神社から西に約1.6km。歩いても20分とかからない。ここも花の窟と併せて、ぜひ訪ねておきたい神社である。
「花の窟」が伊弉冉尊(イザナミノミコト)の墓所であるのに対して、産田(うぶた)神社は火の神・軻遇突智(カグツチ)神が生まれた「産屋」にあたる場所。『紀伊続風土記』には、奥有馬、口有馬、山崎三カ村の産土神(うぶすながみ)で、里人の伝によれば「伊奘冉尊がこの地で軻遇突智神を産んだ」ので産田と名付けたと記されている。
社域は鬱蒼とした森の中にあって、石垣で仕切られた一画は、七里御浜から集められた白石が敷き詰められおり、靴を脱ぎ、わらじに履き替えて参拝する。
古式ゆかしい神明造(しんめいづくり)の社殿は、昭和4年に建立されたもの。屋根に8本の鰹木(かつおぎ)が並べられている。一般の神社では、奇数は陽数・偶数は陰数とされ、それぞれ男神・女神とされることから、産田神社の主祭神が女神・イザナミであることがわかる。
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神社の由緒は、天正(1573〜92)の兵火で古記録宝物等焼失のため不詳とされているが、明治期まで、この地域の氏神社は産田神社であり、「花の窟」は神社ではなくイザナミ、カグツチの墓所として認識されていたという。
また、地元に伝わる口伝には「崇神天皇の夢見により、ここにお祭りされていた神様を熊野川、音無川、岩田川の合流点にある中洲に遷したのが、熊野本宮大社の始まり」という伝承が残されている。現在も、熊野本宮大社の例大祭の巫女舞に「有馬の」の下りがあるといわれ、江戸時代までは、産田神社と本宮大社では、同じ巫女舞が伝承されていたという。
これらの伝承が、産田神社が花窟神社や本宮大社の前進であるとする説の根拠となっているが、産田神社の古さを物語るものとして、もっとも興味を引かれるのが、社殿の両脇にある「神籬(ひもろぎ)」の跡である。
社務所。中央通路の奥が社殿。
社殿の右に見えるのが「神籬」の跡。木が育ち、一部が壊れている。
産田神社の神籬は、人頭大の石を5つ直線に並べ、その周囲を一回り小さな石で方形に囲ったもので、社殿を囲む瑞垣の両脇に2基配置されている。正面向かって左側の保存状態は良好だが、右側は石の間から木が育ち、形状が崩れているのが残念だ。
そもそも「神籬」とは、神社の原始形態とされる神域を示すもので、神社に鳥居も社殿もなかった時代、神を迎えるための依り代(よりしろ)となる神聖な空間であった。古来日本人は、特異な形状の山、巨木、巨石、奇岩などに神性を感じ、神が依り憑き籠もる特別な場所と考えてきた。そのため、それらの周囲に玉垣をめぐらし、常盤木を立てて注連縄を張り、神域と現世を隔てるいわば結界のようなものである。
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参道入口の案内板には、「弥生時代からの古い神社……」と記されているが、これは昭和34年(1959)の伊勢湾台風の際、社殿西の古杉が根こそぎ倒れ、その下から弥生時代中期の土器片が出土したことによるものだろう。
この社域一体が、考古学的にも極めて古い時代の祭祀遺跡であることは分かるが、社殿を中心に置き、神籬を瑞垣の外に出すという、この配置には違和感をともなう。
これはあきらかに、社殿を中心に考えられた配置であり、神籬の2基は、祭神のイザナミとカグツチを表すものとして、神社建立時につくられた後付けの産物と思われ、弥生時代の祭祀施設とは考えにくい。
『紀伊続風土記』に、戦国時代初期の永正18年(1521)、和泉守忠親が産田神社を造建したという記録があるが、おそらくその時か、もしくはそれ以降のものではないだろうか。
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2011年4月30日 撮影
本殿に向かって左の「神籬」
【案内板(部分)】
神社参道。産田神社は「さんま寿司発祥の地」ともいわれており、
毎年1月10日の例大祭には「ホウハン」と呼ばれる骨を残したサンマの姿寿司が供される。