苔むしたご神体の真下に社殿が建てられている。
 吉野川に沿って走る国道169号線が、「宮滝遺跡(今日では「吉野宮」であることがほぼ確定している)」を過ぎた宮滝大橋北詰で国道370号線と分岐する。遠回りになるが橋を渡らないで、吉野川の大きな蛇行に沿って370号線を走る。
 「宮滝遺跡」から約3.8kmの地点。370号線に接して鳥居があり、玉垣で囲われた段丘の奥に覆屋が設けられ、その頭上に船の舳先のような形状の突き出た巨岩が見える。文字通り、岩を神として祀る岩神(いわかみ)神社のご神体である。古くは、旅人が境内で野宿したことからか、宿(しゅく)ノ神社とも呼ばれていたが、昭和14年に岩神神社と改名されたいう。

 街道筋から見ることのできるその威容な風貌は十分に目を引き、人々の記憶にも残るものと思われるが、神社の創建由緒等はなぜか不詳である。

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 古代史最大の権力闘争である壬申の乱。672年6月24日、大海人皇子(後の天武天皇)は妃の菟野(うの)王女(後の持統天皇)、草壁、忍壁両王子らとともに、徒歩で「吉野宮」を出発し、吉野川に沿って北上し(私が遠回りしたコース)、矢治峠を越えて津振川(現在の津風呂湖)に出る近道ルートで伊賀国に向かっている。この近道ルートの入口は、岩神神社からわずか2kmほどの距離にある。

 「宮滝遺跡」は、縄文時代後期の巻貝で文様をつけた宮滝式土器が出土するなど、弥生・古墳時代から飛鳥、奈良時代まで、いくつかの異なった年代の遺構が存在する吉野地方を代表する複合遺跡である。
 「吉野宮」に行幸された天皇は、応神天皇19年の行幸をはじめに、雄略2回、斎明1回、天武2回、持統33回(在位中31回)、文武2回、元正1回、聖武3回の計43回におよんでいる。

 これほど華やかな歴史をもつ「吉野宮」の近くにあって、岩神神社に何の伝承も残されていないのが不思議でならない。
 大海人皇子は、天智天皇に対して、仏道修行のためと称して「吉野宮」に入ることを願い出ている。磐座信仰は、仏教の隆盛とともに、その土地の主役から脇役に格下げされていった歴史をもつ。天皇の聖地となった吉野では、磐座信仰は急速に衰退していったとも考えられる。

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2011年5月1日 撮影


本殿は春日造素木、板葺きで覆屋がある。
昭和60年に改築された。


祭神は吉野國栖の先祖・岩穗押別(いわおしわけ)命と
推察される。

岩神神社全景。