拝殿の後方にあるのがご神体の「天の磐船」。岩の底には天野川の渓流が流れている。
拝殿横から見たご神体。
「磐船(いわふね)」とは石でつくられた船の意であり、「天磐船(あめのいわふね)」とは高天原と地上を行き来するいわば空飛ぶ円盤のようなものだろうか。しかし「磐楠船(いわのくすふね)」とも呼ばれることから、磐のように頑丈な楠の船のことともいわれている。
『日本書紀』にしたがえば、物部氏の祖にあたる饒速日命(にぎはやひのみこと)が、この天磐船に乗ってこの地に降り立ったという。荒唐無稽のようだが、神話には何かしらの史実が秘められていると考えたい。
神話によれば、神武天皇が大和に入る以前、すでに物部氏が大和を統治していたことになる。
『日本書紀』巻第三によれば、
神武天皇の時代、天孫の降臨からすでに「一百七十九万二千四百七十余歳」が過ぎたが、いまだ遠隔の地は、王の恵みが及ばず、村ごとに長がいて、おのおの境をつくり、争っていた。あるとき塩土老翁(しおつちのおじ)がいうには、東方に美しい国があり、周囲は青い山々に囲まれている。そこに天磐船に乗って舞い降りたものがいる、と告げた。そこで神日本磐余彦尊(神武天皇)は、「我思うに、その地は、必ずや大業をひろめ、天下を治めるのに適した地であろう。つまりは国の中心というものだ。その舞い降りたものというのは、きっと饒速日にちがいない。一つその地にいって、都にしようではないか」。
御子たちもこれに同調し、ここから、神武東征の神話がスタートする。
神武東征以前に饒速日命が舞い降りたといわれる「天孫降臨の地」が、ここ河内国河上の哮ケ峰(たけるがみね)・磐船神社である(哮ケ峯の場所については諸説ある)。
神社の起源は不明だが、祭神は饒速日命、正式には天照国照彦天火明奇玉神饒速日尊で、交野に住んでいた肩野物部氏という物部氏系一族の総氏神である。
神社拝殿にのしかかるように聳える舟形の巨石がご神体の「天磐船」で、高さ、奥行ともに12m。底部は岩窟になっていて、磐船神社のハイライト「岩窟めぐり」が楽しめる。
岩窟めぐりの出口付近にある「天の岩戸」とされる磐座。
岩窟めぐりを申し込みに、カメラ2台に三脚を携えて社務所に行ったが、社務所ではすべて置いていけという。撮影禁止かと尋ねると、撮影はいいが、持って入るとカメラを岩にぶつけて壊してしまうという。はて、よほど私がトロそうに見えるのか?
結局、三脚は預け、カメラだけ持ち、渡された白いたすきを着けて、いざ岩窟に入る。
入るとすぐに、社務所の言葉が大げさでなかったことがわかる。岩窟内は意外と広く、底には天野川の渓流が流れている。拝路は岩の間に身体をくねらせ、ねじり込みながら進んでいく。
どっちにいけばいいのか迷う場所には、矢印でルートが示されており、「注」「足から」の文字がある。逆らって「頭から」入ると、石の狭間で身動きがとれなくなってしまうので天の邪鬼の方は要注意。
距離にすれば数百メートルだと思うが、出口に辿り着けば、難所をくぐり抜け無事生還した達成感が味わえる。
ちょっと大げさかな。
◎◎◎
2011年5月2日 撮影
岩に書かれた「→」を頼りに洞窟内を進んでいく。