八王子山の山頂に屹立する金大巖(こがねのおおいわ)。
八王子山は「牛尾山」「日枝山」「山王山」「小比叡峰(おびえのやま)」「波母山(はもやま)」などの別名をもつ。


石段奥が「金大巖」。左が三宮(祭神:鴨玉依姫神荒魂)、右が牛尾宮(祭神:大山咋神荒魂)。


「牛尾宮」と「三宮」。急斜面に張り出して造られた「懸造(かけづくり)」の社殿(いずれも重要文化財 )。
織田信長の比叡山焼き討ちの後、牛尾宮が文禄4年(1595)、三宮が慶長4年(1599)に再建された。


奥宮参道。1200年以上の歴史を有する山王祭「午(うま)の神事」(毎年4月12日夜)では、
牛尾宮・三宮より、松明の炎に先導された2基の神輿(みこし)が、200人の男たちに担がれこの坂道を駆け下りる。


奥宮から見下ろす大津市阪本の町並み。琵琶湖の対岸に三上山(近江富士)が見える。
 比叡山の一峰・八王子山(381m)の山麓、緩斜面に展開される宏大な日吉大社の社域をくまなく見て歩くには、少なくとも半日以上の時間を要するだろう。今回は時間短縮。奥宮をメインに、あとは駆け足で見て回った。

 混同されやすい「ひえ・ひよし」の社名。古くは「日枝・比叡・裨衣」と書き「ひえ」と呼ばれていたが、平安時代に「え」の好字として「吉」が宛てられ、 鎌倉時代以降は「日吉社」の表記が一般的となる。明治時代には「日吉(ひえ)神社」が公称となるが、終戦後は「日吉(ひよし)大社」が正式の読みとなった。
 また、日吉大社は「日吉山王」とも呼ばれるが、この名称は、平安遷都後の延暦25年(806)、唐から帰国した最澄が、比叡山(848m)山頂に延暦寺を創建したとき、地主神・大山咋(おおやまくひ)の神を祀る日吉大社を寺の鎮護神としたことにはじまる。最澄は唐の天台山国清寺が地主神として「山王弼真君」を祀っていることに倣い、比叡山延暦寺の地主神として山王権現を祀り「日吉山王」と呼ばれるようになった。

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 日吉大社は、東本宮系と西本宮系の2つの神域に分けることができる。これは両本宮の成り立ちが、歴史的にも宗教的にもまったく異なっているためで、東本宮の祭神は、大山咋神。大年(おおとし)神の子とされ、須佐之男命の系譜に連なる。元々この地に祀られていた山の地主神であった。一方、西本宮の祭神は、天智天皇が大津京の遷都(667年)にあたり、奈良・三輪山の大神(おおみわ)神社からを勧請した大己貴神(おおなむちのかみ)。舟に神体を載せて琵琶湖を渡ってきたと伝えられ、国家鎮護の役割を担う国家神である。
 神階においては、大己貴神が上位の神とみなされ、大己貴神を大比叡神、大山咋神を小比叡神とも称される。元慶4年(880)には、大比叡神正一位、小比叡神従四位上に昇叙されている。
 ものの起こりという観点からみれば、東本宮は、縄文時代以来の神体山信仰から自然発生的に生まれた産土神であり、西本宮は、天皇の勅命により勧請された国家神となる。神階の差は、時代の趨勢から生じたものといえよう。

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 大山咋神の鎮座地について、『古事記』神代の巻に「大山咋の神。亦の名は山末之大主の神(やますえのおおぬしのかみ)。この神は、近つ淡海(ちかつあふみ)の国の日枝(ひえ)の山に坐し……」とあるのが初見とされる。『古事記』神名釈義(新潮日本古典集成)には、大山咋神の名義は「偉大な、山の境界の棒」。「山咋」は「山杙(くい)」 で、山頂の境界をなす棒杙(ぼうぐい)の神格化。山末之大主の神は「山頂の偉大な主人」。「山末」は山本(麓)に対する山頂をいうと記されている。
 『日吉社禰宜口伝抄』によれば、およそ2100年前の崇神天皇7年に、八王子山に鎮座していた大山咋神と玉依姫の和魂(にぎみたま)を、今の地に遷したのが、東本宮のはじまりとされている。

 八王子山の麓一帯には、「日吉大社境内古墳群」と呼ばれる、古墳時代後期(6世紀初め〜7世紀半ば頃)の円墳が約70基群在している。死者の魂(祖霊)が山に帰る「山上他界」の観念から、山そのものが神聖視され、磐座祭祀を中心とした神体山の信仰形態ができ上がったものと考えられる。
 先にあげた崇神天皇7年の創祀は、史実としては疑わしいが、山上から山麓へと、祭祀の場が移っていったとする由緒に、まちがいはないだろう。

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 金大巌(こがねのおおいわ)のある奥宮へは、東本宮・楼門の西側、牛尾宮と三宮の遙拝所のある石段から登りはじめる。八丁坂と呼ばれる七曲がりの坂道を約1km、体力のない私にはけっこうきつい道程だ。
 参道の道幅が広いのは、4月12日夜の山王祭に、山頂の牛尾宮、三宮より、2基の神輿を担ぎ下ろす「午(うま)の神事」が行われるため。砂利道が石段に変わると、頂上はもう間近だ。急斜面に張り出した懸崖造り(けんがいづくり))の社殿が見えてくる。
 石段を挟んで、右に牛尾宮(東側)、左に三宮(西側)の社殿が並ぶ。牛尾宮には大山咋神の荒魂が、三宮には大山咋の妻である鴨玉依姫神(かもたまよりひめのかみ)の荒魂が祀られている。『日吉社禰宜口伝抄』には「其の妻鴨玉依姫を相殿す」とあるから、元は一つの社殿だったのかもしれない。

 最後の石段を上りきると、正面に比叡の神・大山咋が坐す「金大巌」が姿をあらわす。5角形に見える岩の表面は真っ平らで、石の大きさは約10メートル。「こがねのおおいわ」の名にふさわしい威容を誇り、山頂に聳え立っている。
 ふりかえると、眼下に坂本の町並みと琵琶湖、対岸には三上山(近江富士)の美しい山容が望まれる。きつい坂道を上ってきた甲斐はあったというものである。古くより「朝日に輝く金大巌」と呼ばれているが、湖を行き交う船からも、金色に輝く大岩が確認できたことだろう。

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 山を下り、東本宮へと向かう。奥宮の磐座祭祀に対し、東本宮のなかでもっとも古い祭祀場と思われるのが、摂社の樹下(じゅげ、このもと)宮である。その理由として、以下の2点が挙げられる。
 まず、社殿の配置が不可解である。東本宮本殿は楼門から一直線の南面に建てられているが、樹下宮は、軸線を90度ずらした東面に建てられている。本来、里宮は神体山を遙拝するためのものだから、本殿の背後に八王子山が位置するはずだが、ここでは樹下宮が神体山を背負う配置になっている。
 ついで、樹下宮内には神座の真下に霊泉の井戸があり、霊泉が湧き出していることである。樹下宮の祭神・玉依姫命は、記紀神話で、海神(わたつみ)の次女であり、水と関わりの深い神である。社殿のなかった時代には、この霊泉のある場所が、古代の祭祀場であったと考えられる。

 時代を経るうちに、神体山信仰は昔日のものとなり、大山咋を祭神とする東本宮本殿が建てられたときに、里宮の位置関係も変容してしまったものと思われる。
 元亀2年(1571)、織田信長の比叡山焼き討ちにより日吉大社も灰燼に帰した。現在の社殿は、日吉社の禰宜・祝部行丸(はふりべゆきまる)の尽力と豊臣秀吉の援助を受け、文禄4年(1595)に再建された。この再建時に、社殿の配置が変わった可能性もあるという。

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2015年4月26日 撮影

山王鳥居。神仏習合の信仰をあらわす独特の形。
合掌鳥居ともいわれる。
日本全国に約3,800社あるという
日吉・日枝・山王神社に用いられる。


東本宮参道脇にある磐座。


参道わきの林の中にある舟形の磐座。

東本宮・楼門。古い映画だが、溝口健二監督の『新・平家物語』(1955)で、
市川雷蔵演じる平清盛が、神輿(みこし)へ弓を射るシーンはここで撮影された。


東本宮。正面に東本宮拝殿、左に樹下宮本殿。右に樹下宮拝殿。東本宮は南面、樹下宮は東面に建てられている。


樹下宮(重要文化財 )。祭神は鴨玉依姫神。社殿の床下に霊泉が湧き出ており、ここが里宮発祥の地と考えられている。


東本宮・本殿(国宝)。祭神は大山咋神。
日吉造と呼ばれ、の西本宮本殿(国宝)と摂社宇佐宮本殿(重要文化財)も同じ形式で建てられている。