青龍山の山頂にある「胡宮の磐座」。山全体が神様という神体山であり、胡宮の奥宮、多賀大社の奥の院とも呼ばれている。


胡宮神社拝殿 母屋造間口五間、奥行三間三尺。
社殿は戦国時代に浅井長政・織田信長の兵火によって焼失した後、豊臣秀吉が再建したがこれも焼失。
現在の本殿は江戸時代初期の寛永15年(1638)多賀大社大改修の折に徳川3代将軍・家光によって再建された。


本殿の右手にある摂末社。燈籠の右手に「磐座参道」の石柱が見える。


大日堂と観音堂の間にある石仏群。
 午前6時、本殿の右手にある「磐座参道」から青龍山(333m、東京タワーと同じ)山頂の胡宮(このみや)の磐座をめざす。
 人気のない森閑とした境内を抜け、山ひだに分け入ったと思いきや「高電圧危険」と書かれたフェンスに行く手を遮られる。いきなり出鼻をくじかれた思いで「いやはや、まいったなあ」。フェンスに近づき門扉の張り紙を見ると、磐座参拝者は門扉を自分で開けて、入山してよいとあった。胸を撫で下ろす。

 途中「御池」と呼ばれる竹垣に囲まれた、一見水たまりのような小さな池がある。かつては水量も豊かだったのだろう、ここが参拝者の禊(みそぎ)の場で、日照りの際には雨乞い儀礼も行われたという。

 磐座は山頂の少し手前にあった。元は一つの巨岩が長い歳月のなかでヒビ割れ、積み上げられたような形状を呈している。高さは4mくらいだろうか。石の傍らに龍神を祀る祠がある。
 この磐座こそが、神体山・青龍山の核となる神域であり、ここを母体として神社信仰が発生し、胡宮神社の奥宮として今日に及んでいる。

◎◎◎
 胡宮神社には伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)と事勝国勝長狭尊(ことかつくにかつながさのみこと)の三柱の神が祀られている。事勝国勝長狭尊は別名を塩土老翁(しおつちのおじ)といい、潮路をつかさどる海の神である。『日本書紀』天孫降臨の説話では、日向の高千穂の峰に天降ったニニギノミコトが笠狭崎(かささのみさき、薩摩半島の西海岸)に至ったときに登場し、ニニギに自分の国を奉っている。また、神武東征神話では、神武天皇に「東方に美(よ)き国あり」と助言を与えたとあり、未知の国への水先案内人の役割を果たしている。物事を知り抜いた見識の高い老翁という性格をもち、漁業・農業・製塩業、地域開発、海上安全、延命長寿、安産の神として崇められている。

 胡宮神社の創建は不明。口碑によれば、聖徳太子の草創と伝えられ、敏達天皇(572〜585)の行幸もあったというが定かではない。明治神社誌料に平安時代中期に活躍した女流歌人、赤染衛門(あかぞめえもん)の願文を藏することから、少なくとも一条天皇(980〜1011)以前の創祀であることは確かなようだ。
 のちにこの地に、鎌倉時代に隆盛をきわめた敏満寺(びんまんじ)が創建され、中世以降はその鎮守社として「木ノ宮」と称したいう。
 敏満寺は聖徳太子開基の天台宗の寺院で、戦国時代に浅井長政・織田信長の兵火により焼失、廃寺となり、神社だけが再建された。現在、胡宮神社の境内に金堂や大門跡が残っている。

 また、当社の北方約2kmの所に鎮座している多賀大社とも関係が深い。『延喜式』の「近江国多何神社二座」とは多賀社・胡宮神社両社の併称であり、多賀社に伊邪那岐命、胡宮に伊邪那美命が祀られていたという説もある。
 中世には、多賀社の末社とみなされるが、胡宮側はこれを否定し、多賀社の奥之院と称して独立性を主張するに至っている。明治2年(1869)、それまで「多賀大社胡宮大明神」と称していたのを「胡之神社」と改称。同19年、県社に列格し「胡宮神社」となった。

◎◎◎
 胡宮の名の由来については、景山春樹氏の『神体山』(学生社)に論述されている「高宮」説が奥ぶかい。
 「高宮」は平安期から見られる郷名で、彦根市にある高宮町が多賀大社の入口(表参道)となっていることから、多賀の宮(多賀大社)の名称は高(たか)の宮が転じたものであり、胡宮の胡は、高宮が音読されて高(こう)となり、のちに「胡」の字をあてて呼び慣わされたものとしている。

 多賀大社も胡宮神社も、同じ信仰形態からきた社号であるが、胡宮も本来は多賀社とは別個に、神体山信仰の形態をもって発生し、発達をとげてきた一つの古代信仰圏であったという。『角川日本地名大辞典』にもこの高宮説が採択されており、もはや定説といってもよいかもしれない。
 両社ともに、神体山に鎮座する「磐座」信仰を起源とし、その山麓に神社を造り、そこで四季折々の祭祀を営んでいく。 神体山山頂の磐座を「奥宮」として、一般の人の近づけない禁忌の聖域とし、山麓に神体山を遥拝するための社殿が造られた。
 巨石信仰を起源とする神社発生の成りたちが、「胡宮の磐座」の案内板(下の写真)に分かりやすく記されている。

◎◎◎
2015年4月25日 撮影

行く手を遮るフェンス。磐座参拝者は勝手に開けてよい。


頂上へ20分。丸太階段を登っていく。


青龍山の磐座参道中程にある「御池」。


寿命石。敏満寺は東大寺とのかかわりが深い。
建久(鎌倉時代初期)の昔、東大寺大勧進職として、
源平の争乱で焼失した東大寺の再建にあたった
俊乗坊重源(しゅんじょうぼうちょうげん)が訪れ、
銅製五輪塔を施入した。
重源はこの石に大願成就までの延命を願ったという。


枕石。願い事が書かれたたくさんの祈願石に埋もれ、
どこに枕石があるのかわからない。
枕石は長さ30cmほどの石で、
この石を枕にして寝ると長寿が得られるという。

案内板。