庭園から眺めた水尾神社全景。右の建物が社務所、中:拝殿、左:本殿。


「水尾庭園」。境内より出た石をつかい平成8年(1996)に完成した。


境内に鎮座する巨石。庭石なのか、磐座なのか? 石の前に「拝戸古墳群」の説明板が立てられている。


「祓石」。立て札には「罪穢を祓う霊石としての信仰があり古来は古いお札などを納めた」とある。

 昨夜は湖西線「安曇川(あどがわ)」駅前のホテルに泊る。ここから水尾(みお)神社まで車で約10分。比良山系の北東に位置する岳山(だけやま・565m、三尾山とも呼ばれる)の北麓、和田打川(わだうちがわ)に沿って県道296号線を走る。
 深閑とした神社の参道から、正面に拝殿、その後方に瑞垣に囲まれた本殿が見える。本殿は平成25年3月に建て替えられもので、瑞々しい白木から漂う木の香りが新しい。

 水尾神社の創祀年代は不詳だが、文献上の初見は、『新抄格勅符抄』で、天平神護元年(765)に近江国の「三尾神」に対して、13戸の神封が給されている。また『続日本紀』にも、延暦3年(784)8月3日、従五位下に叙せられた旨の記載がある。

 かつて水尾神社は、和田打川を挟んで、河南社と河北社の2つの社が存在していた。現在地である河南社に磐衝別命(いわつくわけのみこと、垂仁天皇の第10皇子)、河北社には比v神(ひめかみ、継体天皇の母・振姫(ふりひめ))が祀られていたが、昭和34年(1959)の伊勢湾台風で河北社が倒壊したため、昭和46年に本殿の右横に「姫宮」が建てられ、比v神はこちらに遷座された。
 ……と、ここまで記して気がついた。写真をみると、新しく建てられた本殿の横に「姫宮」がない……。
 神社に問い合わせてみると、再建の際に「姫宮」も取り壊され、現在は新殿に磐衝別命と比v神の2柱をお祀りしていると教えられる。
 磐衝別命と比v神は、三尾氏の祖神とされているが、以前の祭神は、猿田彦命と天鈿女命であったといわれている。夫婦神が一つ屋根の下に祀られて、夫婦円満、縁結びのご利益も増すのではないだろうか。

 約6000平方mという広い境内には、山の斜面を利用して造られた見事な和風庭園が広がっている。大小2つの池を配し、境内より出た約2000個の石から造成されたもので、平成8年(1996)12月に完成された。
 庭園の手前に、注連縄の巻かれたひときわ大きな石が鎮座している。石の前に案内板があるが、これは「拝戸古墳群」のもの。この説明ではどこに古墳群があるのか分からない。ひょっとして、この庭園が拝戸古墳群? とすれば、この庭園の石は、古墳群の石ということか……。
 どうやらこれは杞憂であった。拝戸古墳群は6世紀代の横穴式石室をもつ円墳がほとんどで、三尾山の中腹から山頂にかけて現存しているとのこと。それにしても、立て札の位置が紛らわしいと思うのは、私だけだろうか。

◎◎◎
 水尾神社のある近江国高嶋郷三尾野(現在の高島市)は、1500年前に実存した継体天皇(450?〜531年?)の生まれたところであり、この地域には継体天皇に関わる遺跡がいくつも残されている。
 その一つが、継体天皇の父・彦主人王(ひこうしおう)の墓として、宮内庁により陵墓参考地に治定されている「田中大塚古墳」(高島市安曇川町田中)である。全長72mの帆立貝式古墳(円墳とする見解もある)で、古墳の周囲から採集された須恵器や埴輪の編年から、5世紀後半の築造と考えられている。周囲にも小古墳が林立しており、2009〜2011年の調査で、約70基あることが確認されている。
 『日本書紀』によると、近江国高島郡三尾の別業(なりどころ、別宅)に居た彦主人王は、振姫の美しさを噂に聞き、越前三国(福井県三国市)の坂中井まで使いを遣わし、妃とした。こうして継体天皇が生まれるが、天皇が幼いうちに彦主人王は亡くなってしまう。振姫は継体を連れて越前三国の高向(たかむく、福井県坂井市丸岡町)に帰り、そこで天皇を育てたとある。
 彦主人王の本拠地については、高島郡三尾のほかに、琵琶湖の北東部、坂田郡(現在の長浜市・米原市)の息長(おきなが)氏を出自とする説、振姫と同じ越前三国とする説がある。

 さらに、継体天皇と関わりの深い古墳が、明治35年(1902)、県道改良工事の際に未盗掘状態で発見された「鴨稲荷山古墳」である。封土は失われているが、全長50m規模の周堀をもつ前方後円墳(帆立貝形とする見解もある)で、石室内には、奈良県の二上山で産出された白色凝灰岩を使用した刳抜式家形石棺が収められていた。石棺の蓋には4つの縄掛け突起があり、その形状から6世紀前半の築造と推定されている。
 石棺内には、金銅製の冠や沓(くつ)、魚佩(ぎょはい)、金製耳飾り、鏡、刀子(とうす)、金銅製の馬具類など豪華な副葬品が納められていた。これら副葬品の多くは朝鮮半島の新羅王朝の出土品と類似しており、三尾氏が渡来系の氏族と考えられる根拠となっている。
 古墳の被葬者は、三尾氏あるいは息長氏の首長であろうと考えられているが、水谷千秋氏は『継体天皇と朝鮮半島の謎』(文春新書)のなかで、単なる地方豪族の墓としては副葬品が豪華すぎる。二上山の石が使われていることから、畿内と直接関係を持つ人物であるとして、継体天皇の長男の大郎子(おおいらつこ)皇子と推定する試論を提示されている。

◎◎◎
 当社のもう一柱の祭神・磐衝別命(いわつくわけのみこと)についての伝承は、第26代継体から第11代垂仁天皇の時代にまでさかのぼる。
 『日本の神々 神社と聖地5』(白水社)によると、当社に伝わる『三尾大明神本土記』には、垂仁天皇の皇子・磐衝別命が、三尾の郷に来て、猿田彦命を三尾の神として祭り、そこに神戸(かんべ)を寄付された。ゆえにこの地を拝戸(はいど)の宮と称したという。その後、応神天皇の皇子・速総別(はやぶさわけ)皇子が再びこの地においでになり、拝戸の宮を新しく造営して住まわれた。以後、その宮殿を水尾の御所と呼ぶようになった。と記している。
 また、『三尾大明神本土記』には、三尾の名の由来も記してある。「昔、猿田彦命は長田(おさだ、高島市永田の長田神社)に住まわれたので、長田士君(おさだおのきみ)とも呼ばれていた。瓊々杵(ににぎ)尊が日本の国を巡狩されたとき、比良山の北に鐙(よろい)崎・吹御(ふきおろし)崎・鐘(かね)崎の三つの尾崎があって通行の妨げとなっていた。猿田彦命はそれを押し崩した手柄によって三尾大明神の名を賜ったので、住まいする所を三尾郷(みおのさと)と呼ぶようになった」とある。

◎◎◎
 継体天皇は、応神天皇の5世孫というあいまいな系譜や畿内以外の出身であること、さらに即位後、大和入りに20年を要しているなど、異例ずくめの天皇であった。武烈天皇亡きあと、それまでの皇統から皇位を簒奪(さんだつ)し、「新王朝の始祖」となったとする説も、多くの史学者、国学者から提唱されている。
 また、『日本書紀』によると、継体天皇は9人の妃を迎えているが、そのうち4人が三尾君(みおのきみ)、息長氏(おきながうじ)、坂田氏など近江の豪族の娘であるという。三尾の郷が、継体王朝と深い関係にあったことはまちがいないだろう。

 『古事記』には、「袁本杼の命(をほどのみこと)、近つ淡海の国より上り坐さしめて」とあり、継体天皇が近江の出身と明記されている。これらの所伝を正しいとするなら、大和から離れた近江の国の豪族が、どうして天皇を擁立するほどの力をもっていたのか? 日本古代史上の謎の一つとなる。
 白洲正子は「近江は日本の舞台裏」といったが、あながちそうとも言い切れないのではないだろうか。その言よりも、近江は「底知れぬ秘密にうもれている」に着目したい。

◎◎◎
2015年4月26日 撮影

二の鳥居。正面に拝殿が見える。
『延喜式』神名帳には
「水尾神社二座 並名神大 月次新嘗」と記されている。


2013年に建てかえられた流造りの本殿。


境内社の八幡社。



本殿(2013年竣工)。以前は本殿の横に小さな社「姫宮」があった。


「拝戸古墳群」の立て札。