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秀麗な神奈備型の太郎坊山(赤神山)。右中腹に見えるのが太郎坊宮参集殿。
太郎坊山山頂の「夫婦岩」。「節理」によって岩が割れ約80cmの隙間が生じた。悪心ある者は岩に挟まれるという。
「夫婦岩(女岩)」の側面。現在の滋賀県に火山はないが、今から約7000万年前に、
この地域で巨大カルデラ爆発が起ったという。湖東流紋岩の分布がそれを示す証左であるらしい。
阿賀神社本殿まで、ふもとから742段。山上駐車場から259段の石段を上る。
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東近江市を東西に走る国道421号「八風街道」から、ピラミッド状の山体をした典型的な神奈備山が見えてきた。近づくにつれ、山腹を覆う巨大な岩石の露頭が目に入る。太郎坊宮のある赤神山は、標高350mの低山だが、威風堂々とした山容はなかなかの圧巻で、一度見たら忘れられないほど印象的である。
太郎坊宮は通称で、正式名称は「阿賀神社」という。創祀は、今からおよそ1400年前、聖徳太子が太郎坊山の尾根筋にある箕作山(みつくりやま)に瓦屋寺(かわらやじ)を創建した際、霊験を得て創建されたと伝えられる。その後、延暦18年(799)に最澄(伝教大師)が山麓に成願寺を創建し、全盛期には50有余の社殿・社坊を有する天台山岳宗教の霊地となった。中世には、神仏習合によって成願寺の奥の院として祀られることとなる。明治初年の神仏分離で成願寺との関係は絶たれ、明治9年(1876)、山の中腹に社殿が建てられ、太郎坊・阿賀神社となった。
社名の「阿賀」は、祭神の正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさかあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)の「吾勝(あかつ)」から付けられたとするもの。「上がる(あがる)」「崇める(あがめる)」の意とするもの。赤神山の「あかがみ」が「あが」に略化したとするものなど、諸説ある。
また、「太郎坊」は愛宕山の大天狗・太郎坊に由来する。修験道の霊山として栄え、いかにも天狗の棲み処にふさわしい山容から付いた名称である。
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景山春樹氏『神体山』(学生社)の中に、享保19年(1734)、近江の藩士・寒川辰清により編纂された地誌『近江輿地志略(おうみよちしりゃく)』の成願寺の項が引用されている。磐座に関する記載があるので以下に転載しておく。
「すなわち成願寺村にあり。赤神山成願寺と号す。 其記に曰く、それ当山は人皇五十代桓武天皇延暦十八巳卯年、伝教大師草創の伽藍にして、本尊薬師十二神将、御自作たり。 鎮守は熊野権現なり。往古は五十余坊あり、今ようやく二坊をなす。 行万坊、石垣坊これなり。 峰は金剛、胎蔵の曼荼羅、中央は不動明王の垂迹、悪魔降伏の太郎坊。此処に十丈余の妙岩二行に立つ。 是すなわち「アーク(胎大日)」、「バン(金大日)の二字を表す。」
上記に見られる「十丈余の妙岩」が、太郎坊山の磐座「夫婦岩」であるという。言い伝えでは「大神の神力を以て左右に押し開かれた」とあり、岩の隙間は約80cm、長さは12m。この2つの巨岩をもって、男岩を金剛界、女岩を胎蔵界になぞらえ、両界の大日如来の姿に見立てられている。
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赤神山は、「磐境信仰発祥の地」とも言われているが、山の中腹に鉄骨コンクリート造りの巨大な建造物「参集殿」が建てられているのは、観光開発のためとは言え、景観を損なっている感は否めない。ついでに言うと、十二支や七福神などの置物が参道脇に並べられているのも興ざめする。
神体山信仰・磐境信仰を標榜するのであれば、無闇矢鱈に自然に手を加えるのはいかがなものかと思う。
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「夫婦岩」入り口にある案内板
「磐境信仰発祥の地 近江高天原」とある。
「夫婦岩」の先にある太郎坊阿賀神社の本殿。
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太郎坊山から西南に約2キロ離れた船岡山(野口町)にある阿賀神社の磐座。
阿賀神社(船岡山)の本殿。一間社流造 間口一間 奥行一間。
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太郎坊山から西南に約2キロ離れた船岡山(野口町)に、もうひとつの阿賀神社がある。
景山氏は『神体山』の中で、神体山信仰には山上の奥津(おきつ)磐座に対して、かならず山麓に辺津(へつ)磐座の祭祀場を伴うものであるとして、船岡山から太郎坊山の磐座を望拝できることから、ここが太郎坊山の遥拝所もしくは里宮祭祀場であったと指摘しておられる。
阿賀神社のある船岡山は、山といっても標高はわずか152mで、小高い丘陵といった姿をしている。この一帯は、古くから蒲生野(がもうの)と呼ばれ、古代朝廷の遊猟や薬草摘みの場となっていた。『万葉集』にある、額田王(ぬかたのおおきみ)と大海人皇子(おおあまのみこ・後の天武天皇)の贈答歌「茜さす紫野行き標野行き 野守は見ずや 君が袖振る」(額田王)も、この地で詠まれたものといわれている。
蒲生野を取り巻くように点在する繖(きぬがさ)山(433m)や雪野山(309m)。北の繖山の麓には、滋賀県最大の前方後円墳・瓢箪山(ひょうたんやま)古墳。南の雪野山には、平成元年に未盗掘の状態で発見された全長70mの雪野山古墳があり、その周辺には4世紀から7世紀にかけての古墳が200基以上築かれている。
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神奈備山への信仰は、死者の魂は山に昇って神霊と化すとする「祖霊信仰」に始まり、やがて山そのものを神体とする自然神道的な形態に変遷する。6世紀ごろになると祖霊神の観念に、神を人格的存在として表象する人格神の観念が加わり、祭神は神社(建築)に祀られることになっていったと考えられる(湯浅泰雄『神々の誕生』)。
それでは、神奈備山の景観とはどのようなものか。もっとも分かりやすいと思える解説が、池邉彌氏『古代神社史論攷』(吉川弘文館)の中にある。山の信仰をカムナビ型、火山型、高山型の3つに分類し、カムナビ型を次のように定義している。
「カムナビ山は人里のある平野に近く、笠を伏せたか或いは今少し急角度な傾斜をもって一つだけ他の山に抜きん出て聳える山で、その山は樹木に覆われ、その山中には多くの場合石座ないしは磐境が存在する山であり、白山(加賀)とか立山(越中)の如き高山ではなくむしろ低山を指しているとしたい。」
まさに太郎坊山の景観にぴたりと一致する。
蒲生野ののどかな田園風景のなかに、神社信仰発生への変遷が垣間見える。
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2015年4月25日 撮影
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阿賀神社(船岡山)の案内板。
ここには、祭神は猿田毘古神(さるたびこのかみ)と
記されているが、滋賀県神社庁のホームページでは
「天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)」となっている。
天忍穂耳命は別名「正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊」で、
太郎坊宮のご祭神と同じ神ある。
異なっている理由は不明だが、
ここは「天忍穂耳命」が正しいとしたい。
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太郎坊宮の案内板。
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