海の浸食によって生まれた「橋杭岩」。干潮時には岩のなかほど「弁天島」まで歩いていける。

 本州の最南端、南紀を代表する“観光の奇岩”である「橋杭岩(はしくいいわ)」。大小43個の岩がおよそ850mの長きに渡って、串本の海岸から紀伊大島に向かって一直線に延びている。あたかも立ち並ぶ姿が橋の杭のように見えることから「橋杭岩」と呼ばれ、国の名勝天然記念物、日本の朝日百選に選定されている。

 橋杭岩の信仰の形跡を探してみるが、弘法大師と天邪鬼の伝説のほかに、これといった確かなものは見つからない。案内板に、その弘法大師伝説とともに、橋杭岩の25の岩の名前が記されていた。
 左から元島、ゴロゴロ岩、黒岩、タコ島、海老島、コポレ岩、折岩、蛙子島、平岩、ハサミ岩、ポオス岩、大オガミ岩、小オガミ岩、ピシャコ岩、童子島、弁天岩、イガミ島、小メ戸コオシ島、辰欠島、馬乗島、大メド沖ノ島、四ノ島、三ノ島、二ノ島、一ノ島

 ゴロゴロ岩、コポレ岩、ポオス岩、ピシャコ岩など、意味不明の名も多いが、弁天岩などは海の守り神としては定番の名前だ。
 私が惹かれたのは大オガミ岩、小オガミ岩と呼ばれる岩で、はるか遠い海の彼方「ニライカナイ」を見つめているかのような姿形は、凛とした風格があって榛名神社のご神体「御姿(みすがた)岩」を彷佛させる。

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 五来重氏は、熊野には古代葬法としての水葬の風習があり、「水葬の葬法が海の彼方の島を他界とし、また竜宮や海神の国のような空想の海上他界を信じさせたもとであろう」(『熊野詣』)と記している。
 熊野が、いわば生きながらの水葬である「補陀落渡海(ふだらくとかい)」の本場となったのも、海の彼方の理想郷と観音浄土とが習合された、常世信仰がベースにあったからに違いない。

 海に出ていく渡海伝承があれば、海の彼方からやってくる漂着伝承もある。これはいわばセットのようなもので、熊野には、神武天皇のほかにも、応神天皇、神功皇后、吉備真備、徐福(秦の始皇帝の命を受け、不老不死の霊薬を求めて日本にやって来たといわれる)、裸形上人(インドから熊野の海岸に漂着し、補陀洛山寺、青岸渡寺を開山する)など、多くの漂着伝承がある。

 橋杭岩の岩々は、さながら海の往来を見張る番人のような存在ではなかったろうか。海からの悪神・悪霊の侵入を防ぐために祀られた「塞の神(さえのかみ)」として神聖視された時代が、きっとあったと思われる。

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 神坂次郎氏の『熊野まんだら街道』に、「橋杭岩」の一番のビューポイントはJR姫駅の姫海岸であると記されている。
 姫の人たちは、「姫から見る橋杭岩こそ表の眺めで、串本の人はかわいそうに裏ばかり見ている」と自慢するそうだ。
 ご参考までに付け足しておく。

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2011年4月29日 撮影


右から「小オガミ岩 」、「大オガミ岩」。

【橋杭岩の伝説】
その昔弘法大師が紀州行脚の際、
この地に立ち寄り 向かいの大島へ渡るため
天邪鬼に手伝わせて橋をかけ始めたが、
天の邪鬼がくたびれて鶏の鳴声をまねたので
大師も夜が明けたと思って中止し、
その橋杭だけが残ったといわれている。














補陀洛山寺(那智勝浦町)にある復元された渡海船。
井上靖の短篇『補陀落渡海記』の舞台となる。

手前の黒っぽい地層は、熊野層群の泥岩からできている。


【案内板】