朱塗りの社殿に覆いかぶさるように聳える「ゴトビキ岩」。「ゴトビキ」とは紀州一円の方言で「ヒキガエル」のこと。


高さ約11m、熊野酸性火成岩の巨石。石には長さ30mにわたる大注連縄が巻かれている。
注連縄は、毎年「御燈祭」の一週間前頃に張り替えられる。
 熊野の磐座(いわくら)信仰、巨石を祀る神社の筆頭としてまず最初に挙げたいのが、熊野灘を望む神倉山(標高120m)の中腹に鎮座する神倉(かみくら・かんのくら)神社であり、そのご神体として祀られている「ゴトビキ岩」である。

 訪れたのがゴールデンウィークということもあるのだろうが、石を祀る神社をめざして、源頼朝が寄進したといわれる538段の鎌倉積み石段を、息せき切って登ってくる参拝客の多さに、まず驚かされた。「巨石巡礼」の取材地で参拝客に出会うことはめずらしい。
 「神々の座」は時代とともに変遷していく。自然に対する畏れや、自然の恵みに対する感謝を失うにつれ、巨石や巨木、山河などの神の気配を感じさせる自然景観は、いつの間にか人々から忘れられ、荒廃し、山河に埋もれていく。絢爛豪華な社殿もなく、ご神体が石という神倉神社も、もはや顧みられることのない地になっていると思っていた。

 今回、駆け足ながら熊野という地を巡ってみて、「熊野」の名の由来が、「クマ」は「隅(くま=すみ)」の意であり、都から見て「辺境の地」を意味するという説に、うなづけるものがあった。
 熊野信仰は、自然崇拝と古密教、修験道、浄土信仰が混淆して、平安時代の後期に成立したものだが、熊野の霊験は、あくまで神の気配を感じさせる自然景観のなかにあって、いまも「聖地」の痕跡が残こす稀有な地といえる。

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 現在、神倉神社は、新宮・熊野速玉大社の摂社となっているが、その伝承は古く、遙か神話時代にまでさかのぼる。
 『日本書紀』神武天皇の項に
「熊野の神邑(みわのむら)に到り、且(すなわ)ち天磐盾(あまのいわだて)に登る」 という記述があるが、このゴトビキ岩こそ、神武が東征の際に登った「天磐盾」であり、神武が熊野に着いたとき、巨大な熊の毒気に触れて正気を失ってしまうが、このピンチを救ったのが神倉神社の祭神である高倉下命(たかくらじのみこと)と伝えられている。
 また、熊野権現の由来を記した『熊野権現御垂迹縁起』には、熊野権現は「八角形をした高さ三尺六寸の水精の神」で、唐の天台山から飛来し、まず筑紫の英彦(ひこ)山に天下り、伊予の石鎚山、淡路の遊鶴羽(ゆずるは)山、紀伊の切部山を経て、神蔵峯に降臨したとある。

 これらの伝承から、神倉山のゴトビキ岩が、熊野信仰の根本聖地であったことがうかがえる。ついでに「新宮」という名前は「熊野本宮大社」に対して新しいという意味ではなく、旧社地である神倉神社から「新しい宮」速玉大社に移った経緯に由来している。



「ゴトビキ岩」の手前斜面に「袈裟石」と呼ばれる
岩盤が露出しており、「袈裟石」を登った岩のすきまに
白い玉砂利が敷かれた経塚の遺構が見られる。

「ゴトビキ岩」は上下2つに分かれており、下の石が約9×7m、高さ8m。
上が約7×4m、高さ3mで、上部の石が南側にずれていて、これがヒキガエルの頭部のように見える。
 神話時代の伝承が、そのまま史実であるとは思えないが、考古学上のたしかな史料として、昭和31年のゴトビキ岩周辺の調査で、袈裟たすき文の銅鐸の破片22個など弥生時代(まだ神社というものが存在していない時代)の祭祀用具が見つかっている。
 また、野本寛一氏の『熊野山海民俗考』(熊野本ではもっとも価値ある一冊)に、地元ではこの巨石の遠望が「ヒキガエル」ではなく「男根」に似るという言い伝えも根強く残っており「熊野地方には、新宮神倉山のゴトビキ岩を男に、花の窟を女に見立てる風が潜在している」と記されている。
 リンガまたは石棒信仰は、縄文時代にまで遡ることができ、ゴトビキ岩周辺が原始祭祀の霊域であったことはまちがいない。

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 毎年2月6日の夜、松明をもった白装束の男たちが、急勾配の石段を一気に駆け下りる勇壮な祭り「お燈祭(おとうまつり)」が行われる。熊野は女性にも開かれた地といわれているが、この日だけは、神社境内は女人禁制となり、祭りの参加者も男子に限られる。

 日暮れどき、「上り子(あがりこ)」と呼ばれる約2000人の男たちが、熊野速玉大社、阿須賀神社、妙心寺に参拝し、松明を持って神倉神社に集結する。そして夜8時頃、山門が開かれると、上り子たちは一斉に雄たけびを上げて、燃えさかる松明を手に急峻な石段を駆け下りる。その様は、巨大な炎の龍の出現に例えられ、「お燈まつりは男のまつり 山は火の滝 下り竜」と新宮節に唄われている。

 祭りの起源は、神武天皇一行を、高倉下命が松明をかかげて熊野の地に迎え入れたことがはじまりとされるが、祭りの風情にはあきらかに修験道の様相がうかがえる。
 神仏習合の時代、神倉山は熊野修験の根本道場として、多くの神倉聖あるいは神倉天狗とよばれる修験者が集まっていた。約1400年もの長い歴史を持つこの祭りは、修験思想から生まれ、うけつがれた男の火祭りである。

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2011年4月29日 撮影

「お燈祭」では、松明を手にした
大勢の男たちがこの石段を駆け下りる。
暗い中、足場の悪い石段を駆け下りるのだから、
毎年、相当な怪我人が出るのではと思われる。

神社境内から見下ろした新宮の町並、その先に熊野灘が一望できる。
ゴトビキ岩は海上から見えるランドマークでもあった。