明神様の鳥居、杉木立の奥に祠が見える。


山と里との「境界」で、悪霊どもに睨みをきかせる龍頭の岩塊「青龍大権現」。


山の裾野から突き出る青龍大権現。


墓所のような石組。「辰子姫供養」と書かれた板塔婆がかたわらに置かれている。
 生保内と書いて「おぼない」と読む。アイヌ語で「深い川」を意味する。地名の由来に、前九年の役の時、源義家が仙岩峠を越えて東方を眺めると立派な里があるので、「こんなところがあるとは覚えていなかった」と称賛したことから「おぼない」の名がついた。というダジャレ説もある。
 住所だけでここに辿り着くのは難しい。国道341号線「小先達」の信号を西(田沢湖方面)に進む。玉川に架かる橋を渡り、「山のはちみつ屋・お菓子工房」の先の細い道を右折し、一直線に伸びる田んぼの中のあぜ道を500mほど走る。杉林に突きあたると左へ、その先に林の中に入る小道がある。林の中を50mほど歩けば、左手に鳥居が見える。

 ここに着くまでに2度道を尋ねた。その折、農作業姿の中年男性から意想外な伝承を耳にする。
 「石神の明神様……。ああ、青龍大権現。辰子姫のお墓があるところだね。誰も信じちゃいないけど……」
 「えぇ! 田沢湖の主・辰子姫のお墓があるの?」
 驚きのトンデモ情報に触れ、明神さまへの期待がふくらむ。

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 訪ねたのは4月末だが、林の中にはまだ雪が残っていた。林立する杉木立のなかに人の気配はまったくない。丸材で造られた神明鳥居の奥に木造の祠があり、その背後に、高さ約8mほどの龍の頭の形をした岩塊が、背後の山裾からこちらに向かって突き出している。リアルなその形状は、地名となった石神の名にふさわしく、大地の根底からわきあがる不思議なパワーを感じさせる。
 祠の左手後方に、注連縄の巻かれた立石とそれを取り巻く石組みがあり、そのかたわらに「青龍大権現 辰子姫供養」と書かれた板塔婆が置かれている。これが、あの辰子姫の墓所だろうか。

 過日、青龍大権現と辰子姫のかかわりを市の田沢湖観光情報センターに問い合わせてみた。送られてきた資料に「“丑寅日本記”という昔の文書に、辰子姫が願をかけるために、このお宮にお参りしたとも書かれている歴史のある所である。」と紹介されている。
 どうも雲行きが怪しい……。
 『丑寅日本記』は、『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』で一大真贋論争を巻き起こした和田家文書のひとつである。

 私は再度、この文章の出典を求めた。送られてきたのは、案の如く『田沢湖町三十周年記念事業 田沢湖町史資料編 第九集』に収録された『丑寅日本記』からの抜粋コピーである。『田沢湖町史資料編 第九集』は、和田家文書の中から田沢湖町に関係する部分を抜粋し、1992年に発行された公史である。

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 田沢湖町と和田家には、疑惑にゆれた因縁浅からぬ過去がある。
 『田沢湖町史資料編』が発行された同じ年、生保内地区にある四柱(ししゃ)神社のご神体が、青森県五所川原市の石塔山荒覇吐(せきとうさんあらはばき)神社から、930年ぶりに里帰りするというご神体遷座式が、町をあげての一大イベントとして盛大に執り行われた。『外三郡誌』の真贋論争が火を噴く2カ月前のことである。
 遷座式の指揮を執ったのが、『外三郡誌』の発見者である和田喜八郎(1999年没)であり、ご神体里帰りの根拠となった文書が、この『丑寅日本記』である。
 ご神体について、和田喜八郎は、時価にして2〜3億円はする貴重な遺物であると強調したが、里帰りした青銅製仏像のご神体は、中国に行けば、どこでも買える土産物レベルの代物であったという。

 『東日流外三郡誌』は、戦後まもない昭和22年(1947)、津軽地方の和田喜八郎宅の天井裏から“発見”されたといわれる古文書で、1975年に青森県北津軽郡市浦村(現・五所川原市)の公史である『市浦村史資料編』に掲載されて世に出たものである。公的機関からの出版物として信頼を得、おりからの超古代史ブームにのって反響を呼び、大論争を巻き起こすこととなるが、現在では、偽書説は確実視されいる。
 『田沢湖町史資料編』に掲載された和田家文書は、『市浦村史資料編』と同じ轍を踏むものであり、町史に収録された信頼から、四柱神社のご神体里帰り騒動に発展する。

 ご神体騒動の詳細は、東奥日報社・斎藤光政著の『偽書「東日流外三郡誌」事件』(新人物文庫)に記されている。興味のある方はこちらを参照していただきたい。

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 話を青龍大権現と辰子姫の関わりに戻す。
 生保内には、天慶の乱で奥州に落ち延びた平将門の娘・滝夜又姫が、この地に住みつき村の祖先になったという伝説が残されている。この滝夜叉姫が『丑寅日本記』に組み込まれている。滝夜叉姫は、平将門と阿倍國東の次女・辰子との間に生まれた娘であり、幼いときには楓姫と呼ばれていたとある。青龍大権現と関わる部分を以下に引用する。

 「〜 一族の者奥州日之本将軍阿倍氏の所領に遁走して救はる。中に将門の正室辰子、遺姫なる楓、成して滝夜叉姫母子は、仙北生保内邑に落着して忍住せり。時に、楓病弱にて、母辰子は青龍大権現の鎮む生保内湖の湖宮に三七二十一日の祈願をせしに、湖神なる青龍大権現の告を夢うつつに聞くも、楓姫を病に救ふは、母辰子を神のもとに仕はしむ、入水を告げて消えり。依て辰子は浮虫と曰ふ乳母に、楓姫のゆく末を頼みて生保内湖に入水せり。〜」

 この『丑寅日本記』の伝承から、青龍大権現の辰子姫墓所説が生まれたものなのか明らかではないが、道を尋ねた折の「誰も信じちゃいないけど」という中年男性のツッコミも、ご神体里帰り騒動の記憶に根ざすものではなかったかと、今になって思われる。
 田沢湖町も偽書説は認め、遺憾の意を表したが、『田沢湖町史資料編』の発行から、すでに21年が過ぎ、偽書騒動はすでに風化したものと思われる。
 私の照会に対する回答が、『丑寅日本記』に依拠するものであったことには、丁寧な対応をしてもらっただけに複雑な思いがある。たわいのない伝承と思われるかもしれないが、その土地に残る伝承は大切に扱いたい。

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2013年4月29日 撮影



「青龍大権現 辰子姫供養」と書かれた板塔婆。



岩塊の前に建てられた明神さまの祠。



明神さまのある杉林の前から眺めた生保内字石神の風景。