津軽海峡に突き出る願掛岩。男願掛け(右の岩塊)の高さは海抜100mを超える。


新生代新第三紀(2303万年〜258万年前)の流紋岩が露出し、独特の景観を呈している。


願掛岩に麓に、明治40年、この地に小学校教員として赴任してきた歌人・鳴海要吉の歌
「あそこにも みちはあるのだ 頭垂れ ひとひとりゆく 猿がなく浜」の碑が立てられている。
 願掛岩(がんかけいわ)は、まぐろの一本釣りで知られる本州最北端の大間崎から国道338号を約20km南下した佐井村矢越岬の突端にある。休日のせいだろうか、国道ですれ違う車はほとんどなく、所々に現われる集落でも人の姿を見かけることはまれである。
 ここ40〜50年の間に、下北半島西回りの道路網は整備された。昭和42年(1967)年に佐井村の磯谷集落〜牛滝集落間に海岸林道が完成。同43年、佐井村〜川内町を結ぶ県道「かもしかライン」が開通。同45年、佐井村〜大畑町を結ぶ「あすなろライン」が開通。同57年(1982)には大間〜脇野沢〜川内間(海峡ライン・338号線)が国道に昇格した。自然が刻んだ奇岩の景勝を気軽に堪能できるのも、この道路網のお陰といえる。

 それでも冬期になれば、ここは「陸の孤島」と化してしまう。国道338号線の佐井村〜脇野沢間は雪で通行止めとなり、地域のライフラインは青森〜脇野沢〜牛滝〜福浦〜佐井の港を結ぶ高速船「シィライン」を頼らざるを得ない。この航路は国の離島航路補助制度に基づき運航されている。本州の一部であっても、離島としての扱いを受けなければ立ち行かない。それほどの僻遠の地なのである。

 しかし、菅江真澄が訪れた江戸時代後半の佐井村の様子は、今と異なり大層にぎわっていたようだ。当時、この地は南部盛岡藩の所領だった。享和3年(1803)、このころ蝦夷地周辺にロシア船がしきりと来航するようになり、幕府は海防策として佐井湊を函館への渡航地と位置づける。以来、廻船問屋も定着し、南部檜と海産物の積出港として佐井の村は繁栄を極めたという。

◎◎◎
 今から220年余り前の寛政5年(1793)4月1日(新暦5月10日)、桜の好きな真澄は、佐井の港から小舟をこぎだし、牛滝の磯と浦山の桜を巡っている。佐井村逗留時には村長・坂井某の世話になり、江戸で蘭医杉田玄白に学んだ村の医者・三上温(日露戦争に軍医として従軍した三上剛太郎の曽祖父)と親しく交遊している。
 4日、おだやかな朝なぎの日、真澄は三上温とともに、ふたたび佐井港から舟をくり出し浦々を遊覧している。福浦(仏ヶ浦の北)で三上温と別れ、帰路はここから歩き、その途上にある願掛岩に立ち寄った。そのときの記載が「奥の浦うら」にある。

 「矢越のこちらに雌矢越石、雄矢越石といって、その高さ百尋(五〇〇尺以上)ばかりの、そびえたっている大岩があった。小さい祠がふたつあるのは、ほんたの神(誉田別命、八幡社)、やふねとようけひめ(八船豊受姫)を祭るという。二つの鳥居に木の枝をかぎにしてうちかけてあるのは、懸想(けそう)するひとの願いであるという。それでここを神掛といい、また鍵懸ともかくのであろうか。……」
 また解説には、「鍵かけ」について
 「木の枝を鍵状にしたものを鳥居や神木などに投げあげて、うまくかかると願望がかなうという俗信は奥羽地方にあり、神占いとして行なわれていた。」
とある(『菅江真澄遊覧記』「奥の浦うら」東洋文庫より)。
 ついで、中山太郎編『日本民俗学辞典』で「鍵かけ」を調べてみると、
 「鍵懸と云ふのは、津軽の山中では屡々見受ける俗習であつて、即ち木の双股になったものを高い木の枝に投げ掛けるのである。主として男女懸想する占ひである。うまく投げかければ念願成就、幾度やつても出来ない時は失望するさうであつて、錦木の風俗を更に碎いた行事である。鍵懸は神掛けかと疑う人もあったが、此のかんがけは今はまったくやらないと云う話である(津軽旧事談)」とあった。

◎◎◎
 「男願掛け」「女願掛け」と呼ばれる2つの巨大な岩塊からなる願掛岩は、見方によっては男女が抱き合っている姿に見えるというが、どこから眺めればそのような姿に見えるのか。これは縁結びの岩とされる俗信から生まれた見立絵と思われる。

 願掛岩は、鍵掛(かぎかけ)岩、神掛(かんかけ)岩とも呼ばれているが、「ガン」「カギ」「カケ」はともに崖を意味し、崩壊地形を表わすとされる。『地名用語語源辞典』(東京堂出版)にも、「かぎかけ〔鍵掛〕カギ、カケともに崖の意」「かんかけ〔鍵掛、鐘掛、鉤掛、神懸、上掛〕崩崖のこと。ガンカケと同じか。」「がんかけ〔雁掛〕岩壁、絶壁、断崖のくずれ」とある。
 矢越というの集落名も、由来はアイヌ語の「ヤ・グシ」にあるとされ、ヤは陸地または岡の意、グシは通るの意で、海岸線まで迫る断崖絶壁により、浜は通れぬため岡の上を通ったことから名付けられたという。佐井村一帯が急峻な海崖よりなる崩壊地形なのである。

 真澄の描いた絵図からも、海岸に鋭く聳え立つこの岩が、海上からの絶好のメルクマールであることが分かる。古くは航海の安全を祈る“神の依り着く岩”として、船人の信仰を集め、ムラの守り神として崇敬されいたのだろう。村の観光スポットとして、すっかり縁結びの神様にされているが、断崖地形を表す「ガンカケ」が、恋愛成就の「ガンカケ」に転じたのは、後世になってのことと思われる。

◎◎◎
2014年5月5日 撮影

菅江真澄の絵図「やこしの坂をくだる」(『奥の浦々』)
「左井のみなとより やこしのさかをくだりて、
いなりのやしろ 八幡のやしろならびてあり」
案内板より



大間の材木石や津鼻崎など、この周辺には柱状節理の岩が多く見られる。