つぼのいしぶみ。「日本中央」の文字が浅く彫られている。


「壺の碑」は多くの歌人に詠まれている。「みちのくの 奥ゆかしくぞおもほゆる つぼのいしぶみ 外の浜風」西行法師
 「日本中央の碑」は、昭和24年(1949)6月21日、青森県東北町(当時甲地村)の石文(いしぶみ)集落近くの赤川上流の湿地帯で、千曳在住の川村種吉により発見された。高さ約1.5mの自然石(石英粗面岩)に「日本中央」の文字が刻まれていたことから、これが伝説の「壺の碑(つぼのいしぶみ)」ではないかと、大きな注目を集めることになる。
 石碑は現在、東北町の有形文化財に指定され日本中央の碑歴史公園内の「つぼのいしぶみ保存館」に展示されている。入館時、受付より保存館の3つ折リーフレットとA4およびA3の資料2枚をいただいた。

 A4の資料は、東北町歴史民俗資料館から出されたもので、『青森県謎解き散歩』(新人物文庫、2012)に収録されている元青森大学学長・盛田稔氏の「都母(つぼ)の碑伝──謎は全くない」に対する反論が記されている。盛田氏は、本の中で以下のように明言している。
 「昭和二十四年、国鉄東北線地引駅の手前の沢地から発見された「日本中央」と刻した石が、新聞その他を賑わしたが、これは後世の偽作である。
 これは鉄道を敷く時、無蓋貨車に乗せてきて、下の沢へ落としたものであることを、筆者が地引の地方史家(故人)から他言無用の約束で聞いたものであるが、筆者も当年九十五歳、死ねばこの事実は永久に謎になってしまうので、故人に詫びつつ記すものである。」


 衝撃的な内容だが、その反論として
 「現地の踏査をし、発見現場の地形を見る限りにおいては、「鉄路より下に落とすべき沢の無い」こともまた「事実」なのである。仮に、沢に落としたと言うところのみを間違いだとしても、無蓋貨車に乗せてきたとされる「巨石」を、当該地に停車させ、貨車の側板を降ろし、線路脇に巨石を降ろし、50mを運び行くまでには、何名の協力者を必要としたことだろう。
 これだけのことがあったとして、それを知り伝えた人物が千曳の地方史家ひとりのみだったとすれば不思議というしかない。人の口に戸が立てられないことは、なにより盛田氏自身が証明されていることでもある。」
とあった。

 A3の資料「壺の碑伝説─「日本中央」の碑」は、青森県東北町文化財保護審議会 田中寿明氏により記された解説文である。どこかで読んだことがあると思ったら、『謎の巨石文明と古代日本』(新人物往来社、1996)に収録されている「謎の石碑「つぼのいしぶみ」」(田中寿明)を一部書き直し転載したものだった。この文章にも、
 「この石碑については、現在も多くの研究者、学者によってその真偽が論ぜられているが、本稿では、著者が浅学な為、文献及び資料紹介としておく」との尚書きがある。
 いきなり真贋論争となったが、要するに、この石の真偽は明らかでないということらしい。

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 そもそも「壺の碑」伝説は、平安時代末期、歌人・藤原顕昭が文治年間(1185〜89)に著した『袖中抄(しょうちゅうしょう)』にある「顕昭云、いしぶみとは陸奥のおくにつぼのいしぶみ有り。日本のはてと云り。但田村の将軍征夷の時、弓のはず(筈)にて石の面に日本の中央のよしを書付たれば石文と云と云り。信家の侍従の申しは、石面の長さ四五丈計なるに文をゑり付けたり。某所をつぼと云也」(つぼのいしぶみ保存館リーフレットより)という一文から広く知られるようになる。以降、歌にも詠まれ、鎌倉時代初期には東北の歌枕として盛んに使われ、所在不明の謎の石碑として伝説化されていった。

 碑には、征夷大将軍・坂上田村麻呂が、弓のはずを使って「日本中央」と刻みつけたとあるが、田村麻呂は現在の岩手県盛岡市の紫波城までしか来ていないので、これは史実からするとおかしいことになる。
 田村麻呂の跡を継いで征夷大将軍になった文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)が、弘仁2年(811)に馬淵川流域およびその以北の「都母村」まで進撃している。この史実から、石に「日本中央」の文字を刻んだのは、綿麻呂であろうともいわれている。
 それにしても、なぜ陸奥の最奥の地に「日本中央」があるのか。一説によると、蝦夷の先には千島というたくさんの島々があり、そこまでを日本の領土とみなして、ここを日本中央としたという。
 
 江戸時代には、万治〜寛文年間(1658〜1672)に発見された宮城県の多賀城碑が壺の碑と目されていたが、残念ながらこの石碑に「日本中央」の文字はない。一方、壺の碑は千曳神社(七戸町)の地中に埋められ、石文唱神として祀られているという伝承が残されていることから、明治9年(1876)、明治天皇東北巡行の際、宮内省が青森県に命じて千曳神社の下を発掘調査させたが、ついに碑は発見できなかったという。

 菅江真澄も、天明8年に千曳神社を訪ね、村人に碑のことを問うたが結局わからずじまい。何をもってみやげとして、友人に語ったらよかろうかと困惑している(菅江真澄遊覧記「岩手山」)。
 古くは和泉式部や西行法師、源頼朝など、多くの歌人に詠まれた「つぼのいしぶみ」だが、真澄同様、実際にこの石碑を見た歌人はいないのである。

 平安後期にはじまるいしぶみ伝説は、所在不明のまま、単なる歌枕に過ぎないのではと思われていたが、昭和24年、千曳神社近くの石文集落から突如として出土してきたわけである。
 荒俣宏氏は『「歌枕」謎ときの旅』(光文社知恵の森文庫)のなかで「ひょうたんから駒とは、まさにこのことである」と評しているが、実際、出来すぎの感は否めない。
 石碑が発見されてすでに65年、真相は藪の中に入りつつある。

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2014年5月4日 撮影


平成7年に整備されたつぼのいしぶみ保存館。
それ以前は、ほとんど雨ざらしの状態という。


保存館に展示されている発見当時の記念写真。


保存館に展示されている「日本中央の碑」関連年表。