中央の伽藍が本尊安置地蔵堂。開山は5月1日〜10月末日(開山期間中は無休)、この6カ月間に約20万人が訪れる。


恐山の本尊は延命地蔵菩薩。貞観4年に天台宗の慈覚大師によって開山。日本三大霊場に数えられる。


ごつごつとした岩場によこたわる「みたま石」。


八大地獄の一つ「金掘地獄」。


積み上げられた小石の上に、死者の名前を書き残した石が置かれていた。
 むつ市田名部の恐山登山口(むつ消防署前の交差点)に、百貮拾四丁と刻まれた石造りの丁塚がある。ここから恐山山門まで、一丁(約109m)ごとに124本の丁塚石が置かれ、その道のりは約13.5kmとなる。参詣者は「あと何丁…」と数えながら、曲がりくねった山道を歩いていった。下北交通が恐山一田名部間に定期バスを走らせたのは昭和12年(1937)8月21日のことである。

 本州の最北端、下北半島の中央部にある恐山は、しばしば盲目のイタコたちが死者の霊を降ろすおどろおどろしいイメージで語られる。しかしこうしたイメージが定着したのは意外に新しく、どうやら戦後のことであるらしい。
 寺伝によれば、天台宗の慈覚大師・円仁によって平安時代の貞観4年(862)に開山されたとあるが、実際に円仁が下北半島まで来たという史実はない。後世の仮託と思われる。恐山に関する資料が現れるのは、戦国時代の享禄3年(1530)、田名部の曹洞宗円通寺の僧侶・聚覚(じゅかく)和尚による再興からで、それ以前の状況についてはよくわかっていない。おそらくこの頃から湯治場として知られるようになり、豊作・大漁、航行安全などの現世利益を祈願する、きわめて素朴な民間信仰の地であったと思われる。

 江戸時代に入ると、円仁開基説による地蔵信仰と古来の死霊・祖霊信仰が習合し、さらに「これを浴びれば諸病治る」という霊験あらたかな薬湯の効能を求めて湯治客が集まり一大霊場を形成していったと思われる。
 菅江真澄も恐山の湯がいたく気にいったのだろう。恐山を「山の湯」と呼び、寛政4年(1792)から6年の間に5度も恐山に足を運んでいる。なかには夏の大祭とも重なり、ひと月近くに及ぶ長逗留もあった。

 明治〜昭和期にかけて、恐山の宇曽利湖の北岸一帯は硫黄の大採掘場に変貌する。硫黄は火薬の原料となる貴重な資源であった。明治26年(1893)から31年まで三井鉱山合名会社によって、後に王子製紙工業株式会社に移り昭和27年(1852)まで、恐山鉱山として大規模な採掘が行われていた。戦後、硫黄原石の価値が暴落し、採掘は小規模になり昭和44年(1969)に廃坑となる。
 硫黄採掘の露天掘りによる自然破壊で、恐山の荒涼とした風景がつくられたとも思えるが、真澄が描いた恐山の図絵をみるかぎりでは、大きく変貌してはいないようだ。それでも、かつては136カ所からガスが噴き出し、俗に百三十六地獄と呼ばれていたが、明治期の大採掘で、噴き出し口は約30カ所に減少している。賽の河原にある血の池地獄も、以前は血のごとく赤い湯が流れていたが、今ではすっかり毒気を抜かれ、透明な水を湛えるただの池となっている。

 平成になると、恐山の地下に世界最高の含有量を誇る温泉型の熱水性金鉱床が発見された。青森県が実施した地質調査によると、その金の含有量は鉱石1トン当たり平均約400グラム、さらに局地的な最高値で6,500グラムという驚異的な数値が確認された。ちなみに世界最大の金生産国、南アフリカの含有量は5〜8グラムといわれている。それほどの金鉱床があるのに、財政難といわれる青森県ではなぜ採掘しないのか?
 その理由として、県のホームページには
1 金を高い割合で含有する区域は下北半島国定公園特別区域で風致を維持する必要性が高い地域であり、現状では浅層に存在する金を採掘するための露天掘り等による自然環境破壊が避けられないこと。
2 金鉱床に付随して産出するヒ素等による汚染拡大が懸念されること。
3 鉱業法第35条では、鉱物の採掘が保健衛生上害が有る場合や、文化財、公園若しくは温泉資源の保護に支障を生じた場合はその出願を許可しないと規定されていること。
 などから金の採掘実施は困難と判断されています。

 と記されている。

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 今日みられる恐山の信仰形態は、江戸時代後期にでき上がったと思えるが、恐山の存在を全国に知らしめたのは、なんといっても盲目の巫女集団・イタコたちである。
 イタコとは、東北地方の北部を中心に、死者の霊を降ろし、自身を媒介として死者の言葉を伝える「口寄せ」を生業とする。イタコがいつごろから存在したのかは不明だが、菅江真澄の「岩手の山」のなかに「盲巫女」を「いたこ」と表記して、「この盲女は神おろしをし、加持祈祷、数珠をもって占いをし、あるいは亡き霊をよびだしたり、前兆の意味を知らせるのは、神の移託(いたく)ということをするので、それでいたこというのであろうか。」と、イタコについての記述を残している。今からおよそ220年前、すでにイタコの口寄せが東北に根付いていたことは確かである。

 恐山で最初にイタコの口寄せが行われたのは昭和10年(1935)頃であったらしい。最初は一人二人だったが、年を追うごとに増えていき、昭和30年代にマスコミに取り上げられて一躍脚光を浴び、全国から観光客が押し寄せるようになる。40年代の夏の大祭には40名を超えるほどになるが、今では後継者不足となって、平成2年には18名に減り、現在では10名に満たないという。「最後のイタコ」と呼ばれる1972年生まれの松田ヒロ子女と、1969年生まれの日向ケイ子女を除けば、ほとんどが80歳以上というから、まさに絶滅危惧種といえる。
 イタコが集まり、境内に露店を開くことを「イタコマチ」というが、これを主催するのはイタコ組合で、円通寺はまったく関与していない。口寄せ料は一霊3,000〜5,000円。予約は受付けていないため、夏の大祭(7月20〜24日)時には長蛇の列ができるという。


恐山菩提寺は曹洞宗の古刹円通寺が管理している。


湖の北岸には噴気孔が多くあり、硫黄の臭いが鼻をつく。
恐山に噴火の記録はないが、地質調査の結果から
最後の噴火は1万年以上前と見られている。


宇曽利湖は標高214m、直径約2kmのカルデラ湖。湖には酸に強いウグイがわずかに生息している。
恐山の外輪山は釜臥山、大尽山、小尽山、北国山、屏風山、剣の山、地蔵山、鶏頭山の八峰。「蓮華八葉」に例えられる。


背後に見える神奈備山が大尽山。
「人は死ねばお山さ行ぐ」。その「山」とは、ひときわ高く秀麗なあの大尽山を指すのではないだろうか。


極楽浜。今でも宇曽利湖に小舟を流し、海で亡くなった仏の冥福を祈る小舟供養が行われている。
恐山は山の信仰だけでなく、宇曽利湖を大海と見立てた海の信仰ともかかわりが深い。
夏の大祭には、湖畔に風車が列をなして立ち並ぶという。
 訪れたのは開山して間もない5月4日。参拝客は多いのだが、どこか境内の風景はひっそりとしている。しばらく歩いて気がついた。風景のなかの足りないもの、それはカラカラと回るセルロイドの風車、お地蔵さんに供えられた花やお菓子、積み上げられた小石の山など、恐山を彩るお決まりのアイテムであると。5月といっても、恐山は冬の眠りから覚めたばかりのすっぴん状態。恐山の風物詩ともいえる定番の風景ができ上がるには、もう少し時間がかかるようだ。

 以前、日々是好日に「聖地が神の気配を感じられる空間とするなら、恐山は死者の気配が感じられる空間であるのだろう」と書いた。
 神奈備型の秀麗な大尽山(おおづくしやま 828m)や、青く澄みきった宇曽利湖は、太古の火山活動から生まれた特異な自然景観であり、神の気配を感じられる空間といえる。一方、カラカラと回る風車、供えられた花やお菓子、積み上げられた小石の山は、人より手向けられた信仰の産物で、死者の気配を感じるアイテムといえるだろう。なかでも「賽(さい)の河原」にある積み石は、縄文にまでさかのぼる奥の深いものであるまいか。

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 賽の河原は、この世とあの世の境を流れる三途の川にあり、親に先立って死んだ子供が、親不孝の報いを受ける場とされる。子供たちは父母のために一生懸命に石を積むが、そこに地獄の鬼が現れて石の山を蹴散らし、崩してしまう。子供らは泣きながら、ふたたび石を積みなおす。こうした子供たちに救いの手をさしのべるのが地蔵菩薩である。「西院(さい)の河原地蔵和讃」は地蔵菩薩の功徳を唄いあげた和讃の一つである。長くなるのでその一部を引用する

これはこの世の事ならず  死出の山路の裾野なる
西院の河原の物語り  聞くにつけても哀れなり
二つや三つや四つ五つ  十にも足らぬ幼児が
西院の河原に集まりて  親を尋ねてたち巡り
〈以下中略〉 
西や東とかけめぐり  手足は血汐に染め乍ら
父上こいし母こいし  恋し恋しと叫べども
影も形も見えざれば  泣く泣く其の場に打ち倒れ
慕い焦がるるふびんさよ  げにも哀れな幼児が
河原の石をとり集め  これにて回向の塔を積
一重つんでは父のため  二重積んでは母のため
三重つんでは故郷の  兄弟我身と回向して
昼は独りで遊べども  日も入相のその頃に
地獄の鬼が現れて  つみたる塔を押崩す
(以下略)

 賽の河原の「賽」は、「あの世」と「この世」の境界を意味している。境界に石を積み、邪霊の侵入を防ぐ「塞(さえ)の神」が、賽の河原の起源と考えられている。石を神や仏に手向けるという意味においては、石を円環状に配置する縄文のストーンサークルなどと基層においては同じものだと思われる。

 火山活動による一種異様な光景からつくられた恐山の八大地獄は、無限地獄、重罪地獄、血の池地獄、金掘地獄、女郎地獄、法華地獄、どうや地獄、修羅地獄の8つ。 一方には、蓮華八葉をかたどる8つの外輪山、宇曽利湖畔には白砂の砂浜・極楽浜がある。「あの世」のイメージを投影できるの二相の景観を呈した恐山は、この世の親とあの世にいる子供の、地蔵信仰を介した交流の場といえるのだろう。

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 入山してすでに4時間が過ぎた。帰り際に「花染めの湯」に入る。ここは新しくリニューアルされた宿坊の裏手にあり、他の3つの温泉に比べて場所が分かりにくい。さらに混浴ということで遠慮する人も多いのだろう。この湯だけ入浴者が少なく、お湯もきれいだと小耳にはさんだ。案の定、湯屋はからっぽで、私と同行のSで貸切状態。乳白色をした良質の温泉で、美肌や眼病、神経痛やリュウマチなどに効能があるという。

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2014年5月4日 撮影


「あの世での結婚相手が良い人よ逢えますように」。
子を亡くした母の願いだろう。


まるで人であるかのように着ぶくれしたお地蔵さん。


賽の河原の置かれた本山栄一の石碑。
「人はみな それぞれ悲しき 過去を持ちて
賽の河原に 小石積みたり」

境内には、花染めの湯、薬師の湯、冷抜の湯、古滝の湯の4つの温泉があり、入山料(500円)を払えば自由に入浴できる。