脇野沢の牛ノ首岬の南方にある鯛島。釣りの名所でもある。

 この日、朝8時にむつ市の宿を出て、風間浦村(かざまうらむら)の二見岩、本州最北端の大間崎、佐井村の願掛岩、仏ヶ浦を巡り、午後3時に脇野沢の牛の首岬に着いた。この沖合いの南方約800mの海上に浮かんでいるのが鯛島(たいじま)で、何ともユニークなシルエットに、思わず笑ってしまった。

 鯛島はその名の通り、波の上に躍り出た鯛の姿に似ていることからこの名がある。灯台のある頭部には、弁財天が祀られており弁天島、尾の部分は立岩と呼ばれている。周囲約400m、最高標高24 mの無人島で、島周辺は暖海性生物と寒流性生物が混生しており、島周辺の海域約3.6ヘクタールが、仏ヶ浦とともに下北海中公園に指定されている。

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 鯛島には、そのユーモラスな形とはかけ離れた、悲恋の伝説が語り継がれている。

 延暦20年(801)、坂上田村麻呂が蝦夷討伐にやってきた際、この村の首長は、田村麻呂に協力し数々の功績を立てたが、そのうちに首長の娘は田村麻呂の子を身籠もってしまう。都に帰る日が近づくと、田村麻呂は娘も都に連れていくと約束するが、娘を捨てて帰ってしまう。残された娘は悲嘆に暮れ、自ら命を絶ってしまった。 哀れんだ村人は、娘の亡骸を鯛島に葬むるが、その後島の周辺では怪異が続き、娘の祟りだと恐れられるようになった。
 後の南北朝時代、戦に破れ逃れてきた藤原藤房がこの話を聞き、自ら娘の霊を鎮めるために弁財天像を彫み祀ったところ、怪異がおさまったという。

 「日本中央の碑」でも記したが、史実からいうと田村麻呂は盛岡市の紫波城までしか北上していないので、田村麻呂にとっては、とんだ濡れ衣を着せられたことになる。
 お隣、津軽にも田村麻呂伝説が残されており、ねぶた祭りのルーツともいわれているから、東北地方に残る田村麻呂伝説の根の深さは相当なものである。

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 角川の『日本地名大辞典』に、鯛島の写真が掲載されているが、尾の形が現在と異なっている。おかしいと思い調べてみると、昭和54年(1979)10月に、風化により中央部分が崩落し欠けてしまったためらしい。
 鯛島は脇野沢のシンボル的存在であり、村の重要な観光資源となっている。鯛の尾が失われるとクジラ島になってしまい、魅力はあきらかに半減するだろう。早急に風化防止の補強工事をおこなわれ、現在の形が保たれているという。

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2014年5月5日 撮影


補強された鯛島の尾(立岩)部分。


弁天島に設置されている陸奥弁天島灯台。その右に弁財天の祠、鳥居が見える。