宮司さんのはからいで、赤石に水をかけてもらう。


【赤石のカラー写真】 せっかく水をかけていただき、モノクロでは申し訳ないのでカラーもアップしました。

 古くは子波、斯波、志波と呼ばれた紫波(しわ)の町は、岩手県の中央部、盛岡市と花巻市のほぼ中間に位置し、志賀理和気(しかりわけ)神社は、町の中央部を南流する北上川の右岸「川原」にある。昭和30年の町村合併までは、紫波郡赤石村と呼ばれ、赤石は村の名前になっていた。
 当社は桜の名所としても知られている。参道の「南面の桜」を撮り終えて、境内の「赤石」を撮影していると「水をかけると、きれいな赤い色に変わってきます」と、宮司さんから声をかけられた。
 宮司さんのはからいで、バケツに水を汲んできてもらい、柄杓で水をかけると、石は生気を取り戻したかのように、みるみる水に感応し、様相を変えていく。くすんだ紅殻色の岩肌からあざやかな赤味とともに濃い紫色が浮き上がってきた。

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 この赤石さま、よほど水との縁が深いらしい。もともとは川の中にあったという伝承が今に残っている。
 天正年間(1573〜1592年)、陸奥国の名門斯波氏の当主・斯波詮直(しばあきなお)が、北上川遊覧の折に、川底に沈む赤石を見つけ、川から引き上げたというもの。
 詮直は、紫色に輝く川波を瑞兆とみて 、
「けふよりは 紫波と名づけん この川の
 石にうつ波 紫に似て」と歌を詠んだ。
 以来「斯波郡」を「紫波郡」に名を改めたという。
 しかし、詮直については、家臣の諌めもきかず日夜遊興に耽るばかりであったと、あまり評判はよろしくない。遊びの度が過ぎ、赤石の瑞兆にも見放されたのか、天正16年(1588)に南部信直(なんぶのぶなお)の侵攻を受けて敗れ、戦国大名としての高水寺斯波氏は滅亡する。

 詮直の伝承が史実であれば、赤石は天正年間に北上川から引き上げられ、その後、ご神体として当社に祀られたことになるが、果たしてそうだろうか?
 宮司さんの話しでは、赤石はもとは本殿の後方に鎮座していたが、昭和59年(1984)に、北上川の氾濫で、石が濁流にのみこまれ消失してしまうことを危惧し、現在の場所に移動されたとのこと。

 北上川流域では、江戸時代以降のおよそ400年間に334回の水害が起きたという記録もある。
 洪水の恐怖に脅える宮司さんの話を聞くうちに、赤石は川の中にあったのではなく、もとから本殿の裏に鎮座していたのではないかと思えてきた。
 「けふよりは……」の歌は、北上川が氾濫し3〜4mの増水があった折に、舟から視察していた詮直が、社殿背後の水に沈んだ赤石をみて、水害の怖さを忘れまいとして詠んだ歌とは考えられないか。
 宮司さんの話しを聞きつつ、神社裏手から滔々と流れる北上川を見ていると、川から引き上げたという伝承よりも、現実味があるように思えるのだが?

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 通称「赤石さん」「赤石神社」ともいわれる志賀理和気神社は、延暦23年(804)、坂上田村麻呂によって、香取・鹿島の神である経津主神(ふつぬしのかみ)と武甕槌命(たけみかづちのみこと)を勧請したのがはじまりといわれる。また、日本最北の延喜式内社で、仁寿2年(853)には、文徳天皇より正五位下の神格を賜っている。

 古代の東北は、蝦夷(えみし)のすむ未開の地であり、国家の「外」にあった。延暦7年(788)、征東大使に紀古佐美(きのこさみ)が任命され、5万2800余人の兵士が多賀城(宮城県中部)に集結する。しかし翌年、蝦夷の首領・阿弖流為(あてるい)の北上川渡河作戦に破れ大敗する。
 志賀理和気神社の生まれた延暦年間、征夷の歴史は山場を迎える。延暦11年(792)1月、志波村の首長胆沢公阿奴志己(いさわのきみのあぬしこ)が、陸奥国司に帰順を願いでたという記載が『類聚国史』に残されている。蝦夷軍の北の要衝であった志波地方では、胆沢よりも早く軟化の兆しがみられていた。
 延暦21年(802)、田村麻呂は胆沢地方の軍事的拠点として胆沢城(水沢市)を築く。それをみた阿弖流為と母礼(もれ)は、同族500人を率いて田村麻呂の下に降伏。翌22年、田村麻呂は阿弖流為と母礼の助命に奔走するが、願いはかなわず二人は河内国で処刑される。同年、北上川と雫石川の合流点付近(現盛岡市)に志波城が築かれる。これにより、盛岡市より南の地域が大和朝廷の統治下に組み入れられることになる。

 田村麻呂は武力一辺倒で平定するのではなく、宗教を持ち込んで蝦夷との共存を図ったともいわれる。志賀理和気神社が日本最北の延喜式内社となった意味は、この地が東北征討の最終地であったことを示している。古来、当社の神は地主神として北上川の氾濫からこの地を守る水神であったが、朝廷軍に服属することで、征夷の守護神である香取・鹿島の中央神にとって変わった。

 志賀理和気の「シカリ」とは、アイヌ語で「まわる。迂回する。回流する」(『日本縦断 アイヌ語地名散歩』大友幸男)の意味をもつという。北上川に関わる語源説だが、赤石は水の神として、古来より志賀理和気神社にあったのか、北上川の川底に沈んでいたのか? 私にとっては気になるところだ。
 巨石は動かないというのが最大の特徴だが、赤石の大きさは約1.2mほど、巨石というにはものたりない。昭和59年には起重機を用い動かしたが、天正年間、詮直はほんとうに人力で川から引き上げて、本殿後方に置いたのか、今となっては定かでない。

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2013年4月28日 撮影



基壇の上に鎮座する赤石さま。石の高さは約1.2mほど。








本殿裏側。かつてはここに赤石があった。
本殿後方には杉林があり、木立の隙間から北上川が見える。
これまでにも、洪水で境内一面が水につかることが
たびたびあったという。

志賀理和気神社拝殿。社殿は西を向いている。拝殿後方に本殿があり、杉林、北上川に至る。


【案内板】