3つの巨石に守れて鎮座する「地神坊稲荷神社」の祠。
義経北行は、江刺→遠野→釜石→八戸→宮古→久慈→青森→津軽半島に至るルートで、各地に伝承が残されている。
高さ約3.6m、横12.6mの巨石。
奥州市江刺区の東南部、市立伊手小学校のグランド側裏手の杉林のなかに、地神坊稲荷神社と呼ばれる3つの巨石からなる古社がある。
横たわる2つの巨石の間に三角形の屋根がかけられ、その下にお稲荷さまの祠が置かれている。この石、元は一つだったのではないだろうか。長い年月の間に2つに割れ、徐々に隙間が広がり、このような形状になったものと思われる。
石の脇に「地神坊 稲荷神社」と書かれた柱が立てられ、そこに巨石と、かつてここにあった大杉の情報が記されている。かい摘まんで述べると、
「明治風土記」によると、社内に周囲約12mの大杉と、狐石と呼ばれる3つの巨石があり、2つは宮の左右に立ち、高さ約3.6m、長さ12.6m。宮の前にあるもう1つの石は高さ約1.5m、長さ3.6mほど。明治43年の正月に、浮浪者が大杉の洞穴の中で焚火をした。この残り火で火事となり、七日七晩燃えたという。焼残木は伐採して高値で売却した。今でも根もと周囲に黒く焦げた焼け跡を確認できる。とある。
稲荷神社だからきつね石。わかりやすい。焼失したという周囲約12mの大杉は、県内屈指の巨木であり、ご神木であったと思われる。
昔このあたりは藤原氏の領地であり、大きな屋敷が建っていたという。地神坊という名から土地の神、または屋敷神として、巨木と巨石はセットになって祀られていたのだろう。
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ここが源休館跡と呼ばれるのは、「義経北行伝説」のコースに挙げられたことによる。
今から820年以上前の話である。兄頼朝から追われる身となった源義経は、再び平泉にのがれて藤原秀衡(ひでひら)の庇護を受ける。しかし頼みとした秀衡は、文治3年(1187)66歳で亡くなってしまう。秀衡の死後、奥州藤原氏4代目となった泰衡(やすひら)は、頼朝の圧迫に耐えきれず、文治5年の春、約百騎を従えて義経の住む衣川の館を襲撃する。そこで義経は館に火をかけて自害して果てた。
ここで数奇な運命にもてあそばれた悲劇の英雄の生涯が閉じるわけだが、これに待った! をかけるのが、義経主従は北に向かって平泉を脱出したという義経生存説である。
世にいう「判官びいき」から生まれた珍説と嗤うことなかれ。義経生存説は室町時代に発生し、江戸時代には北海道にわたり蝦夷の王になったとする説。明治期には大陸にわたってジンギスカンになったという説が生まれている。大正13年(1924)、小谷部全一郎の『成吉思汗ハ源義經也』が大ベストセラーとなり、昭和33年(1958)には、高木彬光の歴史ミステリー「成吉思汗(ジンギスカン)の秘密」によって「義経=ジンギスカン説」は一躍有名になった。
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源休館跡には、岩手県観光連盟が設置した「伝説義経北行コース」の案内板が立てられている。そこに
「相原友直(江戸時代中期の医師であり平泉研究家)の『平泉雑記』に、「奥州江刺郡伊手村ニ源休館ト云フアリ、郷説ニ義経ノ居城ト云フ、杉ノ古木アリ」とあるという。」と記されている。
源休館は「義経ノ居城ト云フ」と書かれているが、『平泉雑記』には「杉ノ古木アリ」の後に「此事イブカシ」という一文がある。相原友直自ら、この伝承はあやしいと思っていたようだ。
源休館と義経の関わりは今ひとつはっきりしないが、藤原氏との関係は深かったのではないだろうか。源休館のある伊手地区には、昭和53年まで採掘がおこなわれていた赤金鉱山がある。一説では、今から約950年前に砂金が発見されて以来、平泉の黄金文化に大きく貢献したとされる鉱山である。
平泉の高館義経堂から源休館跡まで、Google マップの徒歩ルートで計測すると33.1kmである。義経が金の発掘現場を探索し、その折にしばし源休館に滞留したということも、あり得るのではないだろうか。
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2013年4月30日 撮影
巨石の間に置かれたお稲荷様の祠。
伊手小学校の裏側にある杉林。中央に小さく見えるのが「伝説義経北行コース」(下)の案内板。
【案内板】