土石流の跡のような傾斜をもった涸れ沢に、大小の自然石がゴロゴロと転がっている。
花崗岩に彫られた羅漢さんが餓死者の冥福を祈り続けている。
羅漢とは、阿羅漢の略であり、修行の最高段階に達した、人々から尊敬・布施を受けるに値する高僧をさす。
鬱蒼とした杉林に分け入り、ゆるやかな山の斜面を昇ってゆくと、土石流の跡だろうか、大小の自然石が群がる岩場に出る。転がっている岩をよく見ると、一つひとつの石面に、鏨(たがね)で線を刻む線彫りという技法で、仏の姿がうっすらと描かれている。現在確認できるのは約380体ほどだが、長年の風雪によりそのほとんどが風化と苔で傷みがはげしく、はっきりとした像容をよみとることはむつかしい。
遠野の五百羅漢は、天明の大飢饉の犠牲者の霊を弔うために、南部家の菩提寺大慈寺の義山和尚が明和2年(1765)に発願し、2年がかりで彫られたものである。
無惨に亡くなった犠牲者の霊を悼み、また、再びこのような災禍の無いことを願って、忘れてはならない飢饉の歴史を石に刻んだ僧侶の執念に圧倒される。
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東北地方の太平洋側では、初夏になるとオホーツク海から冷たく湿った北東風が吹いてくる。宮沢賢治が「雨ニモマケズ」のなかで“サムサノナツハ オロオロアルキ”と表現した、冷害をもたらす風「山背(やませ)」である。
日本列島では、およそ300年を周期に、温暖期と寒冷期をくり返すという。江戸時代、とくに18世紀は世界的にみても気温が低く「小氷河期」であったともいわれている。こうした異常気象から江戸時代を通じて凶作は大小あわせて130回発生したという。盛岡藩でも92回発生しており、江戸時代は264年間だから、実に3年に1度の割合で凶作に見舞われたことになる。
数ある飢渇のなかで、四大飢饉と称されるのが寛永の飢饉(1642〜43)、享保の飢饉(1732〜33)、天明の飢饉(1782〜87)、天保の飢饉(1833〜39)だ。このうち日本史上最悪といわれる大惨事に発展したのが、全国で92万〜100万人の死者を出した天明の大飢饉である。
今から230年余り前の天明3年(1783)、盛岡では5月中旬より毎日のように雨が降り続き、夏の土用に入っても綿入れを着用するほどの冷気が続いた。8月には霜までが降るというありさまで、収穫は例年の4分作以下、山間部では皆無という恐るべき事態となった。
米や野菜はたちまち不足し、9月には弘前で最初の餓死者が出る。人々は、牛馬、犬猫、木の皮や草の根など、食糧になりうるものはすべて食べつくし、ついには……をと、想像を絶する地獄絵図の世界が展開された。
南部藩がまとめた『南部史要』によると、24万人の人口のうち、餓死者が4万850人、病死者2万3848人、一家全滅で空き家になった家は1万0545戸とあり、人口の20%を失ったという。津軽藩の記録『天明凶歳日記』には、餓死者10万2000余人、病死者3万人余、他国に行った者8万余人に及んだと記されている。
菅江真澄は、天明5年7月に西津軽郡床前に立ち寄った際、五所川原近くに、無数の白骨が散乱している光景を見て慄然とする。そして地元民から聞いたという奇怪な話を『外が浜風』に記している。
弘前ちかくへ嫁にいった娘が、自分の母がこの飢饉にあってどうしているかと心配し、一日の道のりを歩いて帰ってみた。夕方近くに家につくと、母は無事で、二人はお互いの無事を喜びあった。しばらくして母が、お前は「猿がまるまると肥えているようだ、食べたら、うまさはかぎりないであろう」と、戯れのようにつぶやいた。娘は母の空言であろうと思いながらも、徐々に薄気味悪くなり、母の寝た隙をうかがい、ひそかに戸を押し開けて、夜道を逃げ帰ったという。
安達ヶ原・黒塚の鬼婆伝説を想起させるゾッとする話である。
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江戸時代末期から明治時代初期の日本人の平均身長と、縄文時代中期(約5000〜4000年前)の身長が、ほとんど変わらないという骨の計測データがある。
江戸時代の男性の平均身長は155〜158cm、縄文時代は156〜160cmの範囲にある。ちなみに今から1万8000年前の後期旧石器時代の港川人(沖縄県那覇市近郊で発見された)の男性身長は155cmだった。
弥生から古墳時代にかけて高くなり、およそ163cmほど。古墳時代が終わって歴史時代に入ると身長は徐々に低くなり、江戸末期から明治初期がもっとも低身長の時代となっている。
栄養状態イコール身長とみなすことはできないが、平均身長の推移に栄養状態が大きく影響していることは言うまでもないだろう。
このデータからも、江戸時代の東北が、飢えと隣り合わせの時代であったことが見て取れる。
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2014年5月2日 撮影
案内板
岩場の中の小さな洞窟から、水の流れる音がする。