国道456号沿い、近くに「こうもり岩」のバス停がある。
こうもりが棲むことから蝙蝠岩とも呼ばれ、その昔は山伏の修練場でもあったと伝えられている。
巨大な天井石からなるドルメン状の岩屋。奥に弘法大師像があり、花が手向けられていた。
太子堂の裏手にある花崗岩の重なる岩場。冠の形をした岩があることから「冠山」とも呼ばれている。
東和町から国道456号線に沿って南下する猿ヶ石川の支流を毒沢川という。当霊場の地名にもなっており、その由来は「邦内郷村志」に「岩間に毒を出す沢あり、故に村名とす」(角川日本地名大辞典)とある。また、室町時代に毒沢城主伊賀守一忠が、豊臣秀吉の奥州仕置の軍に追われ城から逃れる際、追っ手を遮るために湧き水に毒を流したという伝承もあるが、この毒だ何だったのかは記されていない。
内藤正敏氏の『聞き書き 遠野物語』〈新人物往来社〉に、こんなぶっそうな話が記されている。明治時代、東和町の隣、遠野の土淵村のはずれにある恩徳(おんどく)金山から青酸カリをもらってきて、川の魚がいそうなところに、ほんのひとにぎり、サーッと流す。浮き上がってきた魚をとって食べるのだが、腸(はらわた)をとって焼いて食べれば何ともなかったという。この密漁法は、ほとんどの金山周辺で行われており、大量の魚が浮き、川の水を飲んだ馬が死んだために、警察沙汰の事件にまでなったという。恩徳金山からもらった青酸カリは、金・銀の冶金(鉱石から含有金属を分離・精製する技術)に使用されたものと思われる。
『丹生の研究』で知られる松田寿男氏は、東北地方すなわち古代の陸奥および出羽は、日本でも有数の水銀地帯であり、あの絢爛たる平泉の黄金文化を支えたのは、北上山地の金であったという。やはり、この地に水銀鉱山があったということなのか?
◎◎◎
案内板には、「当霊場は御大師様が入唐前諸国巡錫(じゅんしゃく)の途中休息された所で、全国に数多くある杖立て伝説が語り伝えられている霊場で清水が湧いております」とある。
弘法大師伝説は、日本各地に3,000以上、ウィキペディアには5000以上あると記されている。なかでも多いのが、当霊場にみられる杖立て伝説で、弘法大師が旅の杖を地面に突き立てると、たちまちそこから清らかな水が沸き出たという弘法水の伝説である。弘法水は、場所や謂れによって「弘法清水」「お大師水」「弘法井戸」「独鈷水」などとも呼ばれている。
柳田國男の『日本の伝説』「大師講の由来」では、弘法水伝説の北限を山形県の吉川としているが、秋田県、青森県にもあるというから、まさに北海道と沖縄を除いた全国各地に広まっているものと思われる。
弘法大師空海は、18歳で大学に入るが、大学の枠におさまる器ではなかったようだ。ドロップアウトの道を選び、大学を中退、山林修行に入る。
弘法大師伝説は、まだ空海が無名であった18歳から入唐するまでの31歳までの青年時代、いわば足跡のあきらかでない時代をもつことで生まれたものだが、いくら空海といえど、10数年で日本国中をくまなく歩き廻ることはできないだろう。諸国を勧進して廻った高野聖が各地に「弘法大師」の名を残したとも考えられるが、いずれにせよ弘法伝説に、空海自体が関わっている例は極めて稀であると思っていい。
と分かっていても、なぜ弘法伝説が、東北のこの地に残されているのかと考えてしまう。毒沢の地名と空海の〈丹生〉つながりで、何か出てくるかと思ったが、目ぼしい伝承は見つからなかった。
◎◎◎
前回アップした石鳥谷町の「呼石大明神」に比べれば、当霊場は国道に面している分、参拝者の数は多いと思うが、社殿裏の岩場から山にかけては「呼石大明神」同様、荒廃が進みつつある。なかなか見所の多い岩場だけに、このまま忘れられ、埋もれてしまうには惜しい。
案内板には、毎月21日に護摩勤修を行っているとある。現在も行われているのか電話で問い合わせてみると、年々規模は小さくなって、今では年に3、4回程度、集まる人も6、7人程度になったとのこと。
当霊場は「蝙蝠岩弘法大師霊場の花崗岩」と称し、平成17年に市の史跡名勝天然記念物に指定されている。次代に残す郷土の風景として、大切に守っていただきたい。
◎◎◎
2013年4月28日 撮影
重厚な石造りの鳥居。
太子堂には大日如来、不動明王、
弘法大師像が祀られている。
「霊場の湯」とかかれた風呂場。
【案内板】