本殿の前には坂上田村麻呂のお手植えと伝わる大杉。その背後に磐座がある。


山の神、田の神、水の神……。神の依りつく磐(座)。

 石神山精(いはかみやまずみ)神社は、南川ダムの北東に位置し、七ツ森の一つ遂倉山(とがくらやま)の山すそに沿って流れる吉田川の流域にある。「七ツ森」は標高300mから500m級の7つの山の総称で、大和町のシンボルとなっている。

 鳥居の前に立てられた「山神」「大神宮」の石碑がものものしい。鬱蒼とした木々のなか、昼なお暗い参道を上ると二の鳥居に迎えられ、やがて石段は拝殿へと行きあたるが、ここが終点ではない。ゆくさきはこの拝殿の裏にある。
 拝殿の脇を通り抜けて後方に至る。まず目に入るのが幹周8m余、見上げるばかりの大杉のご神木とその左手にある「石上大明神」とも称された切り立つ岩壁。そして岩壁に対し横に並ぶかたちで流れ造一坪の本殿が鎮座している。

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 当社は、延喜式内社にも登載される由緒ある古社だが、役場からいただいた資料をみても創建・由緒については不詳な点が多い。
 『続日本紀』に延暦9年(790)「陸奥国黒川郡石神山精社並為官社(並びに官社と為す)」と記されており、奈良時代後期から平安初期には国家の祭祀にあずかる神社として存在していたことが確認できる。

 古老に伝わる口碑に、坂上田村麻呂の創建でご神木もその折のお手植えであるとの伝承が残るが、副将軍として田村麻呂が蝦夷征討に登場するのが延暦13年(794)、征夷大将軍に任命されるのは延暦16年(797)であり、『続日本紀』の記載と符合しない。また、お手植えを事実とすると、大杉の樹齢はおよそ1200年になるが、私の推定では(これもあてにならないが)400〜500年であり、口碑については、にわかには信じがたい。

 『宮城県黒川郡誌』(大正13年)に、当社はその昔「此地を去ること数町なる石神澤に在りたりしを今の社地に奉還したるものなりと云ふ其年代不詳なり」の記載がある。「石神澤」の所在は不明であり、岩壁が動いてきたとも思えない。これもまた謎の伝承である。

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 当社の祭神は大山祇神(おおやまつみのかみ)、大歳神(おおとしのかみ、稲の稔りの神)、事代主神(ことしろぬしのかみ、託宣の神)。配祀に保食神(うけもちのかみ、食物の神)、竈神(かまどのかみ、火の神)が名を連ねている。

 主祭神の大山祇神(『古事記』では大山津見神)は、『古事記』(新潮日本古典集成)の「付録 神名の釈義」に、名義は「偉大な、山の神霊」と記されている。山の神は高山ばかりにいるのではない。人里近い小山であっても、その土地に暮らす人々と密接に関わり、生活に必要なさまざまな恵みを生み、もたらしてくれる。山の神は、また水の神でもある。

 大山祇神は、イザナギ・イザナミの神生みから生まれ、「八俣の大蛇」の条では櫛名田比売(くしなだひめ)の親、足名椎(あしなずち、妻は手名椎(てなずち))の親神として登場する。また、邇邇芸命(ににぎのみこと)が木花ノ佐久夜比賣(このはなさくやひめ)に求婚する条では、木花ノ佐久夜比賣と妹の磐長媛(いはながひめ)の親神として登場している。磐長媛は、岩のように長久不変を象徴する女神であり、石の精霊である。

 東北の延喜式内社には、その歴史から蝦夷征討となんらかの関わりをもつ神社が多い。当社にも口碑による田村麻呂伝承が残るが、信仰形態としては、縄文を源流とする自然崇拝から生まれた古代の祭祀場であったのだろう。
 山の精の座として、磐座=石神を祀る。石神山精神社の社名に、往古の記憶が残されている。

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2013年4月26日 撮影


一の鳥居。石段を挟んで「山神」「大神宮」の
文字が刻まれた石碑が立っている。



二の鳥居。


拝殿。この後方に本殿、ご神木、磐境が鎮座している。