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読書感想駄文過去ログ1-10



ナレッジ・サイエンス 知を再編する64のキーワード

編著 :杉山公造, 永田晃也, 下嶋篤
監修 :北陸先端科学技術大学院大学 知識科学研究科 出版社:紀伊国屋書店
発行 :2002年12月06日 初版発行

(09/02/2003)
 個人的に「e-なんたら」とか「ドットコムなんたら」とかを、ものすごく胡散臭く思ってしまう性格で、最初に「知識経済」とか「ナレッジ・マネジメント」とか聞いたときも、同様の胡散臭さを感じ取ってしまったわけですが、これを読んだり、その筋の方々のお話を伺ったりして、ようやく目から鱗が落ちた次第です。
 「知識」とか「情報」という無形のものの実態がどんなものであるか、その無形のものをどうやって人が扱える形にするか、ということが、知識科学のテーマであると受け取りました。でも、人間に内在する知識を、どのように表出化するか、どのように扱うか、どのように活用するかという問題って、実は僕が専門としてしまった図書館・情報学とすごく密接に関わっているはずなんですが、学部の講義を受けていた限りでは、そのような印象は、決して強くなかったです。院に入って、少しこの方面とも関わりのあるテーマでやってきたので、ようやくほんのちょっとだけ分かってきた、って感じなんですが。
 この本を出した北陸先端科学技術大学院大学の設立者のひとりの野中郁次郎という人は、ナレッジ・マネジメントの世界的な権威でして、形式知と暗黙知の概念だとかSECIモデルだとか、まあ有名な御仁なんです。この本はその薫陶厚い人々の手によるもので、この分野の基本的な事柄が、分かりやすく解説されている、入門書・教科書みたいなものですね。今まで哲学者の遊び道具だった「知識」を、具体的に社会でどのように生かしていくか、という問題に、真正面から取り組んでいます。
 僕が最初胡散臭さを感じた原因ってのは、この知識っていう抽象的なものを何か安易にお題目的に企業経営に援用しただけなんじゃねーの?っていう印象を持ったからでした。でも、社会の役に立てナンボって立場から考えると(別に哲学とかの価値を否定するわけじゃなくて)、ようやく企業経営と知識とが結びついたなーっていうことなんだろうな、と思います。
 この結びつきに違和感を覚えるならば、ぜひこの本を読んでみて下さいな。知識についての考え方の歴史から、企業経営に密接に関わる部分まで、「知識」「情報」が一貫して深く関わっていることが分かりますから。入門書と銘打つだけあって、参考文献や関連文献の紹介は丁寧にされています。レファレンスブック的な使い方もできると思います。
 うちの学科でも、これっぽい科目があると、それなりに面白いとは思うんだけどな〜。


マリア様がみてる

著者 :今野緒雪
出版社:集英社(コバルト文庫)
発行 :1998年05月10日 初版発行

(27/12/2002)
 ごきげんよう。
 現在、なぜか各所で人気沸騰中の「マリみて」こと「マリア様がみてる」。どういうわけか入手してあまつさえ読んでしまったので、感想を書かないわけにもいかないというか、某所との「勝手にクロスレビュー企画」第1弾だったりしますが、それはそれとして。
 コバルト文庫といえば、夢見る乙女の少女小説ブランドとしては最右翼の筆頭の神髄。そこの小説ですから、内容はまあ推して知るべしとしか言いようがないわけですが、なんで各所で人気なんでしょう。一言で言えば、極めてプラトニックなソフトレズな世界がクソオタどものクソ腐り果てたクソ精神をクソ癒してくれてるわけでして、何というか、読んでて頭の中が淡いピンク色に染まってしまいそうな作品です。
 純粋培養の乙女たちが集う私立リリアン女学園高等部では「姉妹」(スール)というシステムが存在していて、上級生が下級生にロザリオを渡すことで姉妹の誓約をして、先輩が姉(グラン・スール)として後輩の妹(プティ・スール)の面倒を見るという、なんかそれだけで背中が痒くなるような設定があったりします。お嬢様学校に相応しく、挨拶は必ず「ごきげんよう」で、同級生や下級生には「さん」付けというのはともかく、上級生には「さま」付け、さらに生徒会が山百合会、生徒会役員の称号が「紅薔薇(ロサ・キネンシス)」、「黄薔薇(ロサ・フェティダ)」、「白薔薇(ロサ・ギガンティア)」と来ては、もう誰も止められません。この三薔薇の妹を「つぼみ」と称して、それぞれ「紅薔薇のつぼみ(ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン)」以下略と来ると、なんかもうどうでも良くなります。
 こんな少女モノにありがちな設定部分を抜かすと、物語の筋はなんか普通の女の子が学園のアイドル的存在の「紅薔薇のつぼみ」さまと偶然だかなんだか分からないけど、姉妹となるのならないのっていうシンデレラストーリーの変形みたいなもんです。というか、あんまり内容無いです。無いんですが、逆に何も考えずに読めるので、疲れた頭を癒すにはちょうど良いのかも知れないですね。殺伐な世界に嫌気が差したときには、こんな百合色の世界で癒されてみるのも、いいのかなぁ…。ダメ人間まっしぐらになる可能性も否定できませんが。
 率直な感想として、ストーリーというよりも設定とキャラの個性で成り立っている感じがして、ある意味完全なキャラものだなぁと思います。なので、自分のお気に入りのキャラを見つけてその人一筋に読んでいくのが、たぶん正しいのでしょう。というか、まだ最初の巻しか読んでないので分かりませんが。とりあえず、三薔薇をルビ無しでちゃんとロサ・なんたらと読めたり、「妹」を「プティ・スール」と読めたり、「祥子」を「さちこ」と読めるようになれば、もう「マリみて」の世界からは離れられなくなることは請け合いかと。
 とりあえずこの巻では志摩子さんがいい味出してたかも。
 あと主人公の祐巳さんのツッコミって実はかなり強烈なんだよなぁ…。口に出してないだけで。


イリヤの空、UFOの夏, その1-3

著者 :秋山瑞人
出版社:メディアワークス
発行 :2002年09月25日 初版発行(その3)

(14/10/2002)
 某所でこの作品中の台詞が名言(迷言?)になっていたので、それにつられて買ってしまいました。ちなみに、その台詞とは、その3に出てくる『園原電波新聞はあっ! 園原電波新聞は弾圧に屈しないっ! 報道の自由はあっ我々の』です。ある意味断末魔ですが、中学生の言える台詞じゃないですね。
 アオリを見れば分かりますが、基本線はオーソドックスはボーイ・ミーツ・ガールものです。なんですが、何というか、設定のテイストがすごく面白いです。非常と隣り合わせの日常の中で(妙にリアルというかアレで、ちょっと好きじゃないんですが)、浮世離れした少女と…ってな話ですが、ちらちらと見えるバックにあるものを考えると、逆に悲壮感に押しつぶされそうになるという。特にその3では、最初の「無銭飲食列伝」でバカやって、このノリでいって欲しいなぁと思うと、次の話でかなりヘコみます。
 この手の話では、主人公の無個性さが目に付きがちで、確かにその気も無いわけではないんですが、周りの連中が濃すぎて(迷言の主も然り)、かえって主人公の性格に救われている面もあるわけで、まあ作りは巧いな、と思います。
 今も連載が続いていて、どう決着がつくか楽しみですが、まあ他の作品も読んでみようかなって気にはなりました。関係ないですが、その1の表紙はちょっと反則だと思います。加奈たんのノーパ…ゲフンゲフン。


光の帝国, 常野物語

著者 :恩田陸
出版社:集英社
発行 :2000年09月25日 初版発行, 2001年12月24日 7刷発行

(14/10/2002)
 某ココロなんとかを買いに行った折りに、それだけ買うのも(今さらながら)恥ずかしいので、適当に物色してた折りに見つけた本。前から恩田陸の名前は知っていたけど、読んだことがなかったので、これを機会にと思ったんですが、すみません、恩田さんが女性って初めて知りました(汗
 それはともかく、裏表紙のアオリにつられて買ってみて、しばらく放置気味だったのですが、ようやく完読しました。連作短編集ですし、薄いので別に読むのに苦労はしなかったんですけど。
 内容を書くとネタバレになるんですが、「常野物語」というサブタイトルから「遠野物語」が想起されるように、なんとなく、民俗学チックなオカルトテイストがありながら、どこかノスタルジックな作品、という感じでしょうか。表題作の「光の帝国」を読むとかなり押しつぶされそうな気もしますが、まあ最後まで読んでみてくださいって感じで。恩田さん自身もあとがきで触れていますが、どうも、大きくて長い物語の登場人物たちにまつわる外伝群、ないしプロローグというような印象もあって、「常野」にまつわる世界観の大きさを感じさせます。権力への志向を持たず、普通の人の中に埋もれて、ひっそりと暮らす…とか、山にまつわる話とか、どうも「山の民」とかの漂泊の人々との関わりも読みとれて、この短編集だけで終わらせるには、すごく勿体ない作品だと思いました。
 ありがちだけど、癒されてみたい人には、割とお勧めかな、と思います。ただ、女性作家特有の筆致が、やや目に付くような気がするので、そういうのが苦手な人は読みにくいかも知れませんね。


回想のシャーロック・ホームズ

著者 :ドイル, アーサー・コナン, サー
翻訳 :阿部知二
出版社:東京創元社
発行 :1960年08月18日 初版発行, 2001年08月24日 70版発行

(23/07/2002)
 いちおうホームズファンを自称しているので、すべての作品と、主な贋作物には目を通しています。しかしその中でも特にこの「回想のシャーロック・ホームズ」は、思い入れのある作品です。というのも、初めてシャーロック・ホームズを読んだのは、近所の図書館で偕成社の児童向けシャーロック・ホームズ全集を借りたのが最初なんですが、なぜか「シャーロック・ホームズの思い出」(「回想のシャーロック・ホームズ」相当)の下巻だけその図書館に無かったんです。従って、そこに収録された短編だけ、ずっと読めずにいたわけです。当然、「最後の事件」を読まないまま「空き家の冒険」を読んだりしてしまって、非常に歯がゆい思いをしたわけですが。
 最近になって、ある日ふと創元社の文庫本が目にとまって、そういえばあんなこともあったなーと思って買ってしまったわけです。というかホームズの贋作物は何冊か持っているんですが(「シャーロック・ホームズの功績」は何故か初版本で持ってたりして)、肝心の本編を、そういえば持っていなかったなぁと思って、これを皮切りにようやくそろえ始めたという始末。いやお恥ずかしいことですが。
 作品の内容というより、作品そのものにまつわる記憶によって思い出深いものとなる作品もあるんだなーというお話でした。内容は…ほとんどネタバレになりますし(笑
 そうそう、どうでもいいことなんですが、「シャーロック・ホームズ」というと、皆さん、鹿撃帽にインバネスコート、パイプに虫眼鏡というルックスを思い出しませんか? 確かにホームズは愛煙家なので、パイプは愛用品ですが、実は複数のパイプを使っていたりしますし、パイプを使わずに紙巻や葉巻を吸うこともあります。それに、鹿撃帽(ディアストーカー)やインバネスコートは、原作中にそれを着用したという明確な記述は無いんですよ。挿絵を描いたパジェットが好んで自分の好きな鹿撃帽を描いたから、鹿撃帽は視覚的にトレードマークになったようです。でもインバネスコートは不明。一方、虫眼鏡ですが、確かに原作でも結構な頻度で使われていますが(緋色の研究、ボスコム谷の謎、青いガーネットなど)、いつも使っているというわけでもなく、常に持ち歩いているというわけでもなさそうです。肉眼で見ことも比較的多いように思えます。そういうことなんですよ、四葉ちゃん。


或る『小倉日記』伝

著者 :松本清張
出版社:角川書店
発行 :1958年12月10日 初版発行, 1997年02月25日 改版4版発行

(16/07/2002)
 中学生や高校生の時に図書館に通い詰めて、松本清張全集を端から読みあさっていた記憶がある。でも今読み直してみると、また別の面白さが見えてくる。特にこの短編集には、無名で孤独な学者や作家が姿を見せていて、彼らを描く筆致に、とても清張らしさが出ていると思う。確かに彼らの生き様には色々と身につまされるものがある。しかし、それ以上に、何かに打ち込み、一時の名声や喜びを得ながらも、それに続く寂寥感にさいなまれる姿は、それが淡々と描かれているだけに、かえって人間の生というものへ深い洞察や切り込みが感じられる。
 ヒーローでも悪役でもない、ごく普通の、当たり前の等身大の人間が、そこに描かれている。だからこそ、彼の作品は面白いのだと思う。
 つか、実際問題、この作品が研究者としての生活の覚悟を強いているように受け止めてしまうのは、今の状況では仕方のないことなのかな。


銀河がこのようにあるために

著者 :清水義範
出版社:早川書房
発行 :2000年12月15日 発行

 思いっきり間が空いてしまったが、予告どおり日本の作品を書きますね。
 清水義範さんは、僕のツボにヒットする作家の一人である。「蕎麦ときしめん」が代表作と言われるが、是非ご一読を。この作品のセンスが理解できれば、もうハマること請け合いである。一般に「パスティーシュ小説」と呼ばれるジャンルを書いているが、厳密な意味でのパスティーシュではない。やはりパロディと言っていいのかな。
 この小説を読んでも、やはりパロディっぽい匂いが漂っている。この小説は一口に言えば、宇宙論と人間の脳の認識の話である。というより、宇宙論をターゲットにした、脳と認識そのものの話である。といった時点で、何を下敷きにしているのか分かる人も多いと思うが、瀬名秀明の「Brain Valley」を想起させるような内容である。もちろん「パクリ」ではなく「パロディ」なので、小説としてのオリジナリティは保たれているが。清水義範と瀬名秀明はそれなりに親交もあるらしく(「もっとおもしろくても理科」を参照)、この作品はその影響もあったであろう。もちろん超能力を持った子供の誕生や、それによる人類の進化という点では、アーサー・C・クラークの「幼年期の終わり」も髣髴とさせる。
 ただこの小説でメインに描かれているのは、やはり人間の認識と脳の関係である。観測、つまり人間の認識と存在の関係というのは、物理学と哲学に関わる問題もである。僕自身は、物理学と哲学を結びつけるキーワードが認識と存在だと考えているが、存在と認識が最も顕著に表れてくる例が量子力学であろう。「シュレーディンガーの猫」という有名なパラドックスに見られるように、量子力学は観測によって対象が変化してしまうという前提に立っている。観測されるまでは、対象の状態は固定されない。観測されることで、初めて対象の状態が決定されるという立場である。量子力学的に言うと、観測によって波動関数が収束するということになる。つまり、量子力学という、これまでの人間の認識とは大きくかけ離れた世界の記述によって、人間の認識と存在の関係が改めて問い直されようとしているのである。
 そこに「存在」するという。しかし、本当に「存在」しているのか。人間の認識、つまり脳がそこに存在しているように見せているだけではないのか。であれば存在とは絶対的なものではなく、あくまで脳の中、人間の認識に拠って立つものではないではないか。そのような視点をベースに、物語が展開する。その中には例えばリチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子」だとかのポップ?なトピックも登場する。
 この小説の中でひとつ問題となっていること、そして清水義範が以前より書いていたこととして、脳と心という問題もある。つまり、人間の心は脳の動きだけで、正確に言うと電気信号と化学物質の授受だけで説明できるという立場と、心はそんな単純なものではないとする立場の対立である。しかしこの両者は基本的にかみ合っていない。前者は、脳による心のメカニズムを問題にしているのに対して、後者は心の素晴らしさを問題にしている。論点が異なっていると、清水は述べる。そうだとすれば、敷衍すれば、科学好きと科学嫌いの立場も同じものであろう。
 科学は万能ではない。しかし、脳の構造や精神活動の解明など、科学が人間の本質にまで迫ろうとしているのもの事実である。科学の限界と人間の限界。この両者を理解することが、より人間らしくあるための手段ではないだろうか、などということを考えさせられる小説であった。
 なお、小説の体裁がSFっぽいので、そういうのが嫌いな人は受け付けないかも知れない。また瀬名の小説といっしょで、どこまでが本当でどこまでがフィクションかの見分けも付けにくいので、その区別ができない人にはお勧めできないかも。しかし、宇宙論あり、科学論あり、脳の話あり、サスペンスあり、怪しげな宗教ありと、エンターテイメントとしても楽しめるので、読んでも損はない。


トリスタン・イズー物語

Le Roman de Tristan et Iseut

編者 :ベディエ Joseph Bedier
訳者 :佐藤輝夫
出版社:岩波書店(岩波文庫)
発行 :1953年1月5日 発行
    1985年4月16日 改版発行

 同じく漱石の「幻影の盾」という作品のモデルになった作品であ る。中世騎士物語のひとつで、アーサー王の物語の外伝的な作品で もある。というのも、トリスタン卿はアーサー王の円卓の騎士に名 を連ね数々の武勲を上げている。また、この話にはランスロット卿 も登場するし、アーサー王の話と合わせて読むと面白いだろう。
 どうでもいいが、イズーという名はちょっと気になる。イゾウド というのも変だ。僕はイゾルデがいいと思うのだが、それはそれぞ れであろう。そう言えばトリスタン卿もどっかではトリストラム卿 と書かれていて、興ざめした記憶がある。名前は重要であろう。ま あ、それはともかく。
 あまり経験が無いので大きなことは言えないが、女性の嫉妬とい うのは恐ろしいものである。この物語を読んでしみじみ感じた。だ って、自分の夫が生きるか死ぬかの間際なのに、それと分かってて あんなこと言うか、普通。それとも復讐ということなのか。いずれ にせよ、ちょっと怖い。妬かれるのはある意味嬉しいのかもしれな いが、願わくばあのような妬かれ方はしたくないものである。
 それにしても何とすごい効き目の媚薬であろうか。って、何かロ マンのないことばかり書いている。要するに、この話は悲劇である。 止むに止まれず愛してしまった男女の悲劇である。中世の騎士物語 は最終的にそこに帰着するのであろう。ランスロットとギニヴィア にしてもそうだし。エレーンという例もある。逆に言えば、その当 時から恋愛というのは人間活動の一大事であったわけだ。
 恋はともかく、愛情というのは常に持ちたいものである。
 じゃなくて、中世騎士の悲劇としても読んでよし、アーサー王の 外伝としても読んでよし、当然「幻影の盾」の原案として読んでも 面白い作品である。一般教養としても一読をお勧めたしい。
 なんか外国文学が続いたので、次は日本の作品で。


アーサー王の死

中世文学集T
Le Morte D'arthur

著者 :サー・トマス・マロリー Syr Thomas Maleore
編者 :ウィリアム・キャクストン William Caxton
訳者 :厨川文夫・厨川圭子
出版社:筑摩書房(ちくま文庫)
発行 :1986年9月24日

 中世文学の金字塔であり、現代ファンタジーの一方の親となって いる作品である(もう片方はトールキンの「指輪物語」)。実は、 授業でやった夏目漱石の「薤露行」がアーサー王の話に取材したも ので、せっかくだし一度読んでおこうと思ったのである。
 内容はいわば中世の騎士物語なのだが、前半はともかく、後半は アーサー王の物語というよりランスロットとギニヴィアのお話がほ とんどであった。
 この訳は書いた通り、いわゆるキャクストン版というもので、ア ーサー王のテキストでは最もポピュラーなものである。それをアー サー王研究の第一人者であった厨川さん夫妻が訳している。ちなみ に、現在のアーサー王(および西洋書物学)研究の第一人者である 高宮利行先生は、この厨川先生のお弟子さんで、ともに塾の人であ る。
 もとい、この訳がキャクストン版の全訳なのか抄訳なのかは分か らないが、少なくとも読んだ限りは例えば聖杯探求の冒険が抜けて いたりして(読み飛ばしたかもしれないけど)、どうも不完全な気 がする。それでも中世の騎士物語のバイブルである様子は分かった し、なかなか面白く読んだ。この本は、各章の頭にその章のあらす じが書いてあるので、読みやすいかもしれない。漱石がランスロッ トとギニヴィアとエレーンの話を書いた理由は分からないが、確か に独立した小説としても十分通用する部分ではある。それにしても エレーンはちょっと可哀相な人だ。
 逆に、これを読んでから「薤露行」を読んでみると、一層面白い かもしれない。ただ、「シャロットの女」というのはテニソンの詩 に材を得ている部分も大きい。
 中世文学に興味があるにしろ無いにしろ、一度読んでみてもいい 作品だと思う。


英語遊び

著者 :柳瀬尚紀
出版社:河出書房(河出文庫)
価格 :¥600
発行 :1998年5月6日

 僕は英語は得意ではない。クロアチア人と英語で会話したことは あるが、イギリスやアメリカで会話できるかどうかは、分からない。 でも、英語は好きである。何でかと聞かれても困るのだが、日本語 とは一線を画した構造というか、思考様式の違いが如実に表れてい て、とても興味深いのである。
 で、こういう題の本があると、つい手にとってしまう。この前も 「イギリス地名の語源辞典」とか何とかいう本を読んでしまった。 同じような本は他にもあるのだが、これに惹かれた理由はただ一つ。 著者が柳瀬尚紀さんだからである。
 実は、僕もこの人の名前をはじめて聞いてから日が浅い。確か浪 人中に母校の高校にお邪魔した折、英語が得意な友人(オーストリ アに2年間行っていた)とともに、担任だった英語の先生を訪ねた のである(某O澤先生)。そこで彼と先生との間で、いつのまにか ジェイムス・ジョイスの話になってしまって、先生が書棚からジョ イスの名著(謎著?)「フィネガンズ・ウェイク」を取り出して、 僕たちに見せてくれた。なぜ高校の英語科にフィネガンズ・ウェイ クがあるのかは知らないが、ともかく、冒頭、小文字の、しかも世 界最大の英語辞書であるOED(Oxford English Dictionary) にも 載っていない単語(最新版では「1例のみ」として載っている)で 始まり、本分の一番最後の単語がtheであると いう、この小説に非常な興味を覚えたのだが、これを日本語に翻訳 されているということを聞いて、もっと興味を覚えた。その時、初 めて柳瀬尚紀さんの名前を聞いたのである。
 その後、大学に入って初めてフィネガンズ・ウェイクの日本語訳 を手にした時の衝撃! 3行で発狂してしまった。それほど凄い文 章なのである。是非ご一読下されたい。はっきり言って意味不明な のだが、実は非常に上手な訳であることを、後に柳瀬さん自身が書 いた「フィネガン辛航記」を読んで分かった。
 で、柳瀬さんである。彼は英語に造詣が深い以上に、日本語につ いて、並みの日本人よりも巧みに操っている。
 この「英語遊び」の中にはアクロスティック、アナグラム、ダブ レット、パリンドローム(回文)、オノマトピア(擬態語)などの 様々な言葉遊びが紹介されている。面白いのは、英語だけでなく日 本語もそれぞれの形式に対応した言葉遊びになっているのである。 その日本語だけを読んでいても楽しい本である。もちろんメインは 英語だが、そんな難しい単語もないし、意味が分からなくても後で ちゃんとフォローもしてくれる。
 一般教養とは言わないが、頭の体操というか、「言葉」というも のの面白さに触れることができる本だと思う。英語はもちろん、日 本語の面白さにも気付くことが出来るだろう。

 「読めない」小説といわれるフィネガンズ・ウェイクを翻訳して 壮大な言葉の世界を描き出してくれた柳瀬さんだからこそできる、 本当に「楽しい」英語の世界への入り口だと思う。英語の時間に、 たまにでいいから、こういうテキストを使ってくれると、面白いと 思うのは僕だけだろうか。
 でもよく考えたら内容の話よりも前置きの方が長い。申し訳ない です。


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